![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/41007195/rectangle_large_type_2_949593cd16987c430995e8503f41488b.png?width=800)
こぼれずに戦う
戦わない人は、必ず周囲の人々に対してキバを剥く。戦わない人は自分の無遠慮なキバの照れ隠しに勉強をして言葉や理屈のリボンで飾る
戦う人だけがその戦いの場にキバを置き、白痴になって笑っていることができる。
戦う人の体は、傷つき、脳にダメージを負っていて、みじめに見えるかもしれない、けれども彼らの人生は、その戦いにおいてある意味で済んでいるのではないか。
戦わない人たちがその余ったキバで無意識に暴力をふるっている。
人は、人なんて、殺し食いテメエが死ぬまで生きているだけだ。
けれども人はじぶんとじぶんとの戦いを天に見せるために生きているんだ。
神さまに自分自身の戦いを見せて、そして死ぬ、死ねば皆平等に無害な存在として成仏する。
生きてるかぎりまっすぐな戦いをする、自分の怒りがこぼれてしまうなら、それは戦いという自分自身に対する怒りがくすぶってしまっているからだ。
生きるということにおいてその矢印を周囲にそらせているひまなんてないんだ、自分の眉間の間を見つめて自分の真ん中から自分の向こう側に通じるトンネルをこの矢印は指し続ける
まっすぐに自分に怒れ、自分ととっくみあいのケンカをしろ
自分を甘やかす優しさにだまされるな
最後には
白痴になって人の言ってることもよくわからないことになってしまうかもしれない、ハゲて、こわばった関節を引きづって歩くかもしれない。
それでもちゃんと自分に向けて放った怒りの矢は、きちんと天にささっているからしんぱいはいらない。
壊れることを恐れなくてもいい
壊れるほど燃やしたカロリーは
ちゃんと成仏してるから
たしかにぼくに、社会や伝統や国や保育や義務は見当たらないかもしれない
ぼくだってもちろんぼくと社会をつなぐ言葉を信じて、してほしいふるまいをするように頑張ってはいるけれど
さいごのさいごでいつもぼくは、僕の外にある言葉や肩書きを信じて、このカラダを捧げることがどうしてもできない、染まりきってしまうあと一歩のところで逃げ出してしまう
僕は人のことを悪く言ったり、政治や社会を
悪く言う自分のことばを信じることができない、ぼくには悪く言って断言してしまえるポジションがない
ぼくがただ信じることができるのは
僕が僕を動かしたその実績についてだけだ
それは僕のさっきの影みたいに、ついてまわっては動くと同時に消えていくものだ
戦いを横取りさせてはいけない
ぼくとぼくとの戦いに神さまや全世界以外の観客はいらない
自分の戦いじゃない戦いを戦わされないために、ぼくらは自分の戦いについて考えながら戦ってみながら生きるしかないんだ、戦ってみる、それしかできないじゃないか、戦ってみてはじめて自分の戦いが見えてくるんじゃないか、もしなにか、自分の戦いじゃない戦いを戦わされていると感じるなら、その戦いからおりる戦いをやってみるべきかもしれない、もちろん自分の戦いじゃない戦いをこれは自分の戦いじゃないと知りながらそれでもなおその戦いを続けるという戦いもあるのかもしれない、けどその戦いは戦いじゃない戦いを戦う戦い・・・というようにどんどん自分の中心から遠心力的に遠ざかってしまう戦いになってしまうような気がする
だからボクサーは殴り殴られるその瞬間は永遠に無口だ、その瞬間かれらは人間をやめている、もちろん。獣だってそんなことはしない、わざわざ拳を保護するグローブを巻き相手の顔面と拳を守った上で全力で殴り合うという、宗教儀式
そこで僕らは何をしてるんだろうか
観客を喜ばせるには
戦いの神を喜ばせなければいけない
自分からいかに脱却するか
そのために相手の顔面を借りる
そしてこちらの顔面も貸す
そして殴り合いっこして悟りあいっこする
殴り合いの中では人は同じ生き物だ平等だ
平等だから僕はたまらなく好きなんだ
僕が暴力を語ると、ある種の語るカタルシスにおちいって自己破壊萌えのように見えるかも知れないけどぼくは何も自殺を目指してるわけではない、人はうんこと一緒に毎日自分の腸壁を便座にぶちまけているわけだけれども、これは腸壁による大量自殺ではないように、僕らは毎日昨日の自分を脱ぎ捨てて生きているわけだ
生きるとは代謝することだ、筋トレとは自己破壊ではなく超回復の喚起だ。
僕がいつも嗅ぎとるコロンは
破壊の最中にある回復の匂いだ
自己破壊の最中にあってなお自己を癒そうとする自然の緒力、あるいは神の御力
自分が死につつも生きようとするその能動、そのポジティブにしかぼくは興味がない
生きたいというたまらない欲望
生きてるのに生きたいというどうしようもない欲望をぼくはもつ
いつもそうだった
生きてるのにそれをぼくは信じる力をもたず、鈍感な自分も納得できるくらい猛烈に生きたいんだ
たくさんの愛する人を戸惑わせてきたのは、ぼくの生に対する焦りが、その人たちから見るぼくにはすでにたくさん詰まっているからだろうか
そうだすでに僕は生きてる
けどぼくはもっと生きたいんだ
まっすぐな目で
まっすぐな戦いをして
生きてるっていうことを天に叫びたい
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?