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放言羅列

スピード、アジリティ、クイックネス。資本主義とはSAQ三種の速度で分裂するプロセスだ。それに反して土地にくくりつけられた者たちの見る夢は解放の向こう側に未知の大陸が眠る街。アジアとはなんだ、それは一つの強度。香港、それは現在、過去と未来を切り離れていく独自の今を磨いてくすんだり輝いたりする刹那の気分。資本の速度をいかに減速せしめるかの腹案は、大胆に切り開かれてはいけない、自分がひとつの可能性ではなく、ひとつの有限性であるのだということ、日本は狭い、はっきり言って知りたくもない、民族、政治、血脈、それら歴史。深みにはまればはまるほど自由に抑圧を感じる、知れば知るほど狭められていく可能性、ポタリ。ポタリ。血溜まりが凝固して我が身をなすように、経血、切創、愛憎の葛藤が血の文脈。この止まらない地球の回転、回転がHOURを刻みMINUTSを刻む決定的に不可逆の回転。。


ともすれば、俺は巡っては戻れぬ同じ季節の不可逆のルーティンの向こう側に同じ陽の目を浴びることを望むより早く、ゆっくりと経済密着型の思考でこの社会と寄り添う。あぁ、結局は解放とは同化することなのだ、労働と自我の同化は解放である、瞬間との合意。選択の合否ではなく瞬間の肯定、肯定の瞬間、連続。香港は正しいか、アメリカは正しいか、日本は、安保は、正しいとはんを押そうとする時、俺らは一瞬、神にならざるおえない、その時だ人間のもっとも悪しき瞬間は。他者を統治し、十ぱ一絡げに自分の理性の放屁の内に万民を吹き飛ばす、放言の罪悪、放言は放った手応えとともに、とっさに当人の論理中枢、思想的支柱に入り込み、そこからセリー状の型に、そいつの思想をインストールする、考えてるつもりなのか、考えてるつもりなのか、考えてるつもりなのか。それはその論旨から自然発生的に生じる。情報の化学反応の結論にすぎないのではないのか、論理にもっとも重要な材料は情報ではなくて信仰だ、ひとつ手前の論理を信仰できることができなければ論旨は縦に積み重なって自立することなんぞ不可能だ、だもんで俺に論理は不可能なのだ、論理の不可能性こそが俺の論理であり、信仰である。論理は一番最初の基礎の時点で不信の波にさらわれて俺の土地には建築はたちえない、俺の土地、それは海、ゼリーなのか溶液なのか判然としない巨大な膜の層が我が大地と空の間に挟み込まれていて、天空をゆく天使なのか鳥なのか、そういったUFOたちは光学的に右往左往して判然としないこと、果てがない。

今日も俺は労働の先の夜の中ひとり、防蛾灯に照らされた桃畑の山々の起伏を眺める、こうやって共同生活から抜け出てひとり、楽しむ。ひとり、楽しむこと、それは禅の社会的側面である、共同生活にまつわる色々な盲信はこのひとり楽しむことの中に罪悪感を潜み込ませる、俺はひとり楽しむことで共同生活にまた戻り活力的に共同生活に火をくべることによってこの罪悪を退ける。これは罪悪ではない、幸福の経済学だ、ひとり楽しむことをどんなに忙しくても止めにしてはいけない、そしてまた巣に戻り労働を共有する。寝ても覚めない夢の中で、俺はこの人生という夢を起きている中で闘いながら、それら一連の悶絶をショープロレスとして提示しなくてはいけないという、この脅迫的な思いはなんだろう、あらゆる孤独が社会的なものであるとか意味のわからんことを言ってた岡本太郎に連帯の意を遅まきながら表する。社会に向ける矢のごとく禅を打ち込むこと、その矢なくして空気だけが動転する社会では空気こそが権力だ、これら空気権力から我らの主権を取り戻すためにこそ、矢を鍛えよ!自らの禅を見出し社会にぶっこめ!グローバルを追い越していく禅の実践、資本主義を利用し、その速度に先んじて、自分の重心に向かって墜落し、時間を停止させることだ、そしてはじめて自分という時間が進みはじめる、それはチクタクと言わず、書きたい時に書き加えられる未完の小説だ、時間の横一列な振る舞いをパーティーによってガタガタにしてしまう社会はあまりに小さい、出会っては思い出し、離れては忘れてしまえるほどのその場限りの社会だ、俺はこれを信じている。金銭ではなく、お互いの前進が貨幣となり、五感で交換される諸価値のその未来は、カタチなくしてすでに国家である。

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