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凌雲閣(通称: 十二階)

かつて浅草にあった展望用の高層建築


明治時代の日本で最も高かった建造物は、明治23年(1890年)に浅草に建てられた「凌雲閣(りょううんかく、通称:十二階)」である。

その高さは、約52メートルであった。明治時代には高い建物はめずらしく、街なみや山々を一望できるので、評判を呼び、開業当初は多くの人々が訪れた。

また、「日本初の電動式エレベーター設置」や「日本初の美人コンテスト開催」など、多くの話題で人々の注目を集めた。

今回は、浅草にあった「凌雲閣」について解説する。


〈目次〉
1. 眺望用の高層建築「凌雲閣(十二階)」
2. 歓楽街の浅草に建てられた
3. 電動エレベーター、美人コンテスト 
4. 凌雲閣からの展望
5. 凌雲閣の幕引き

1.眺望用の高層建築「凌雲閣(十二階)」
凌雲閣は、眺望用に作られた12階建ての高層建築である。上から見ると八角形になっていて、1〜10階はレンガ造、11〜12階は木造であった。

登覧券(入場チケット)の料金は、大人8銭、子ども4銭であった。当時としては高めであるが、庶民でも手が届く金額だった。

眺望用に建てられた凌雲閣だが、景色を眺めるフロアは11〜12階で、その下には商品を販売する店舗(売店)が入っていた。

イメージとしては、ショッピングセンターの上2フロアが景色を眺められるスペースになっている、といった感じである。

ただ眺望を目当てに訪れる客がメインだったため、売店には入らずに上の階へ向かう人のほうが多かった。

2.歓楽街の浅草に建てられた
凌雲閣が建てられたのは、浅草寺の敷地内にかつて存在した「浅草公園」の近くである。

浅草公園は、近代化を推し進めたい明治政府が先進国にならって作ったものといわれている。一区〜七区に区画が分けられていて、歓楽街として多くの人々が訪れる場所だった。

3.電動エレベーター、美人コンテスト
凌雲閣は日本初の電動エレベーターを設置した建物として話題を呼んだ。しかしながら故障が続いたため、開業半年でエレベーターは稼働中止となった。

客足が遠のくことを心配した凌雲閣の運営者は、頭を悩ませた。そこで思いついたのが、通称「東京百美人」と呼ばれた、日本初の美人コンテストである。

浅草・吉原・日本橋・赤坂・新橋など、東京各地の花街から100人の芸者が選ばれ、プロの写真家が撮影した芸者たちのカラー写真を館内に張り巡らせた。そして客は階段を登りながら写真を眺め、投票をした。

当時の芸者といえば、美しさと巧みな芸、教養を兼ね備えたスター的な存在であった。しかし、お座敷に訪れる客は役人や大学教授など、財力のある有識者が中心。つまり、一般庶民はなかなかお目にかかれなかった。

そんな芸者の姿を眺められるとあって、多くの客が殺到した。当初、投票期間は30日間の予定でしたが、予想外の盛況ぶりにより、投票期間をさらに30日間延長した。

投票コンテストは初回の1回だけであったが、凌雲閣ではその後も何度か美人写真の展示が開催された。

4.凌雲閣からの展望
眺望室からは、東京はもとより富士山や伊豆の火山群、足柄、箱根などを一望できた。また、浅草に隣接する台東区・千束にある「吉原遊廓」も眺めることができた。

館内には景色を眺めるための望遠鏡が設置されていたが、それを使って吉原の遊女を見ようとする人も少なくなかったようだ。

5.凌雲閣の幕引き
明治後期以降、浅草の地で映画やオペラの人気が高まるにつれ、凌雲閣に訪れる人数は減っていった。

開業の半年後には一日平均300人ほどの来客数であったが、明治30年頃には一日わずか数十人程度しか来客数となり経営状況は悪化した。

東京の観光名所としてガイドブックには必ずといっていいほど掲載される場所ではあったが、近隣の人が訪れるというよりは「地方からの観光客が行く場所」のような扱われ方になっていった。

来客数が減ったところに地震が起きた。
明治27年の地震、そして大正12年(1923年)の関東大震災である。

明治27年の地震で建物に亀裂が入り、「こんな高い建物、倒壊したら危険だから取り壊したほうがよいのではないか?」という議論が持ち上がった。

高さがウリであった凌雲閣は、その高さにより危険な存在として見られるようになってしまった。

それでも凌雲閣は、浅草の象徴的な存在であり続けた。それはその「高さ」ゆえである。低層建築がほとんどだった当時、浅草の地にひときわ高くそびえ立つ煉瓦造りの建物は、ある程度離れている場所からでも見ることができた。

凌雲閣が浅草から消えたのは、大正12年(1923年)である。理由は、同年に起きた関東大震災だった。

大震災により8階のあたりから上が崩れ、さらに火災によって内部から煙が上がり、巨大な煙突のように燃え上がった。その約20日後、倒壊の危険があるとし、爆破解体がなされた。

こうして凌雲閣は、悲しくも33年の歴史に幕を閉じたのである。

しかし、凌雲閣は明治時代から大正時代にかけて、浅草のシンボルであり続け、その時代を象徴する建物であったといえるだろう。

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