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江戸総鎮守「神田明神」について


正式名称・神田神社。 東京の中心ー神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、豊洲魚市場、108町会の氏神様である。「明神さま」の名で親しまれている。


■神田神社の御祭神(まつわれている神さま)

①大己貴命(おおなむちのみこと)
だいこく様。縁結びの神様。

国土開発、殖産、医薬・医療に大きな力を発揮され、国土経営、夫婦和合、縁結びの神様として崇敬されている。

大己貴命(だいこく様)


②少彦名命(すくなひこなのみこと)
えびす様。商売繁昌の神様。

商売繁昌、医薬健康、開運招福の神様である。
手のひらに乗るほどの小さな姿ながら知恵に優れ、だいこく様とともに日本の国づくりをされたと言われている。

少彦名命(えびす様)


③ 平将門命(たいらのまさかどのみこと)

まさかど様。除災厄除の神様。平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆け「兵(つわもの)」として、関東の政治改革をはかり、命をかけて民衆たちを守った方。


■神田明神の歴史

社伝によると、神田明神は天平2年(730)に出雲氏族の真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建された。

その後、将門塚周辺で天変地異が頻発し、将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊を慰めして、延慶2年(1309)に神田明神は奉祀された。

また、戦国時代においては太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬された。

慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、当社では徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝の祈祷を行った。
すると、9月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たした。
これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられた。

江戸幕府が開かれると、神田明神は幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616)に江戸城の
表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座した。

また、江戸幕府によって社殿が造営された。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬を受けた。

明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に正式名称は変更され、東京の守護神として「准勅祭社」「東京府社」に定められた。

明治7年(1874)には、はじめて東京に皇居をお定めになられた明治天皇が親しく御参拝になり御幣物を献じられた。

明治時代 神田明神①


明治時代 神田明神②


大正12年(1923)、未曾有の関東大震災により江戸時代後期を代表する社殿が焼失してしまった。東京の人々により、すぐに復興が計画され、昭和9年に当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建された。

昭和10年代後半より、日本は第二次世界大戦へと突入し東京は大空襲により一面焼け野原となった。神田神社の境内も多くの建造物がほとんどがやけ消えてしまったが、耐火構造の社殿のみわずかな損傷のみで戦災を耐えぬいた。

戦後以降、結婚式場・明神会館など次々と境内の建造物が再建されていき、昭和51年に檜木造の隨神門が再建されるに及び、江戸時代に負けない神社の姿を取り戻りもどしている。


神田明神 隨神門(正門)


参照元: 「江戸総鎮守 神田明神」Webサイト

以上

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