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「セルフ・コンパッション」と「あるがまま」について



〈目次〉
1.はじめに
2. 『あるがまま』と『こうありたい』自分
3. 『あるがまま』とセルフ・コンパッション
4. セルフ・コンパッションを高める方法
5. セルフ・コンパッションから『あるがまま』の受容へ


1.はじめに

セルフ・コンパッション(self-compassion)は,直訳すると自分への慈しみ,または自分への思いやりとなるが,compassionにはより多くの意味が込められているため,カタカナでセルフ・コンパッションと訳している。

セルフ・コンパッションは,仏教伝来の概念で,私たちに幸せのあり方を教えてくれるし,それを実践することで『あるがまま』を受け入れられるようになる。

近年は,基礎研究や臨床研究も盛んに行われているが,ここでは『あるがまま』の捉え方に注目して説明をしたい。

2.『あるがまま』と『こうありたい』自分
『あるがまま』とは,どんな心理を表しているのだろうか。もし『あるがまま』を体験したとしても,言葉にして表すことは難しい。

一方で,『あるがまま』でない経験,すなわち何かの振りをした経験はすぐに思い出せるだろう。

例えば,自己紹介の場面でどんなことを話すのかイメージしてみてほしい。「私は,○○に所属していて……」「私は,○○を趣味にしています」といったセリフが思い浮かぶかもしれない。

実際のところ,自己紹介は自分の姿をよく見せるために,自分の良いところを都合よく取り出して話す行為であり,『あるがまま』の自分自身をさらけ出すことはしない。

自己紹介に限らず,我々は確固たる「私」という固定概念を作って,『こうありたい』『こうあるべき』自分として振る舞っている。

家でも学校でも会社でも,夫や妻,男や女,出身地,出身大学,○○世代,管理職などの役割を演じている。

『こうありたい』『こうあるべき』自分自身は,頭の中で作り上げられたもので,ちょっとしたことで崩れ去ってしまう。

発表をするとき,格好の良い姿を見せたいと思って頑張っていても,他者のちょっとしたネガティブなしぐさに気づいたらどうだろう。

人よりも優れた成績を残せたと思って自信を持った数日後に,他者がさらに優れた成績を取ったと分かったら,どんな気持ちになるだろう。

いずれの場合も,『こうありたい』自己像はもろくも崩壊し,自信や自尊感情は低下してしまう。さらにやっかいなことは,そこから怒りの感情が湧き起こり,私たちを苦しめるのである。

「なんてなさけない」など自分のふがいなさに対して腹を立てることもあれば,「どうしてほめてくれないのか,なぜ自分の良さが理解できないのか」と認めてくれない他者に腹を立てることもある。

容姿や成績で自分を圧倒してくる他者に対しては,嫉妬していじめたり排他的な態度を取ることもあるし,親密な対人関係だとより強い怒りを感じ「どうして(自分が思うようにもっと)愛してくれないのか。許せない」と恨みや憎しみを抱き,復讐心につながることもある。

しかし,そのような怒りを他者にぶつけることはできない。結局は,過去の自分のやり方を振り返って自分を責めるしかなくなり,より深く落ち込んでしまう。

仮に『こうありたい』自分自身の姿を追い求めて達成できたとしても,それは一瞬の喜びが生じるだけのことである。

夢のかなった一瞬が過ぎ去れば,次の瞬間からまた絶え間ない努力や競争を求める世界が待っており,将来のことを考え続けることになる。

『こうありたい』自分になるように努力しなさい,と言われることがあるが,言われるがまま振る舞えば,いずれは怒りや不安で疲れ果ててしまうだろう。

真面目で努力家と言われて社会的に評価されている人が,うつ病などの精神疾患に罹って苦しむことがあるのがその一例である。

『こうありたい』自分を追い求めると不幸になるのなら,どう振る舞えばよいのだろうか。

もし,何もせずに今現在の『あるがまま』の自分自身を受け入れることができれば,心は穏やかになるだろう。

しかし,自分の良い部分や気持ちの良い感情の『あるがまま』は受け入れることができそうだが,負の側面の『あるがまま』については不安や怒りや落胆を感じるため,かなり難しい課題となる。

例えば,自分の課題や問題点について自分で認識するのも,人から指摘されるのも苦痛である。

そのため,見て見ぬふりをしたり,考えるのをやめるために,過度に酒を飲んだり遊んだりすることもある。

また,ライバルに嫉妬を感じ,「あの人なんていなくなれば良い」と思ったとしたら,そういう感情を持った自分を恥じたり罪悪感に苦しむこともある。

自分のポジティブな側面もネガティブな側面も,そのありのままを受け入れることは,簡単なことではない。


3.『あるがまま』とセルフ・コンパッション
自分自身を負の側面も含めて『あるがまま』に受け入れるには,そのための心のありようが必要となる。それが,セルフ・コンパッションである。

セルフ・コンパッションを理解するには,まず他者へのコンパッションを思い出すと分かりやすい。

親しい人,愛する人が困っているときのことを想像してみてほしい。その人を批判したり怒ったり,悪い結果だけに注目して悲しみに浸って一緒に落ち込むようなことをしないだろう。

その人の様々な感情や思考を受け入れ,そうした経験が人間である以上避けようのないことを理解し,その苦しみから解放されるように慰めたり,手助けをするに違いない。

コンパッションは,困っている人を見たとき,その苦痛を何とかしてあげたい,苦しみを取り除いてあげたいと自然と湧き起こってくる感情のことである。

コンパッションを感じているときには,援助に際して見返りを求めたり,相手への愛情が深ければ助けてあげるといった条件がなく,清らかな無償の愛のみが存在する。

他者へのコンパッションを自分にも同じように向けると,セルフ・コンパッションとなる。

すなわち,セルフ・コンパッションは,自分にとって困難な状況において,自分に優しい気持ちを向け,そのときの経験を良い,悪いと判断することなく受け入れ,そうした経験が他の人たちと共通していることを認識することである。

表1 セルフ・コンパッション尺度の構成要素


アメリカの心理学者のクリスティーン・ネフ博士が,自身の瞑想の経験から,セルフ・コンパッションを概念化し,Self-Compassion Scale(SCS)という心理尺度を開発している(Neff, 2003)。

SCSは,自分への優しさ,マインドフルネス,共通の人間性というポジティブな側面と,それぞれの対極である自己批判,過剰同一化,孤独感というネガティブな側面から構成される(表1)。

アメリカでも日本でも,その他の国々でも,セルフ・コンパッションが高いと,不安や抑うつが低く,幸福感が高いことが明らかにされている。

一方で,セルフ・コンパッションが低い人の『こうありたい』『こうあるべき』という自分の姿は,非常に厳格な人物である。

セルフ・コンパッションが低い人は,困難なことがあっても自分に優しい言葉をかけるなどもってのほかで,厳しい態度で臨むほうが良いとか,そもそも自分などは大切に扱うべきでないと考える傾向にある。

その結果,困難な状況でも自分自身を労わることはせず,自分を批判的に見て厳しい言葉をかけ,結果的に不安や怒りや悲しみといった感情に圧倒されてしまう。

また,自分だけがこうした苦労をしている,誰も助けてくれないといった考えにとらわれ,他者から孤立した状態にある。

自分と他者を区別して,人を助けることはしても,自分を助けることはしない。

その中には,自分の気持ちを押し殺して,自分のことを後回しにして,ただ人のために尽くすことを美徳とする人もいる。

しかし,人のことだけを気遣い,感情を抑制して生活していると,自分が何をしたいのかすら分からなくなり,落ち込みやすくイライラしやすくなる。

家族のため,会社のためにと思って働いても,『こうあるべき』自分を演じながらやっていると,「やらされている」ような状態で本来の力が発揮できない。

自分を責めたり,相手を怒鳴ったりして苦しむだけでなく,失敗を重ねて迷惑をかけたり周囲の人を心配させて,結果的にお互いに不幸になってしまう。

4.セルフ・コンパッションを高める方法

表2  慈悲の瞑想のフレーズ

自分自身の優しい友人になり,慈しみを自分自身に向けると,暖かく,穏やかで,安心感にあふれたセルフ・コンパッションを経験できる。

セルフ・コンパッションを高める方法はいくつかあるが,ここでは慈悲(慈しみ)の瞑想を紹介したい。

慈悲の瞑想は、自分や他者の幸せを願い、自分や他者が苦しみから解放されることを願う仏教伝来の瞑想法である。

「私が幸せでありますように」(慈悲の「慈」,loving-kindness)、「私の悩み苦しみがなくなりますように」(慈悲の「非」, compassion)という慈悲のフレーズ(表2)を、自分に、また他者に向けて放ち、包み込んでいくのが慈悲の瞑想(loving-kindness and compassion meditation)である。

「自分が幸せでありたい」「他者も幸せであってほしい」という慈しみの気持ちは、誰しも持っているが、『こうありたい』『こうすべき』自分によって否定されたり、意識されなくなっている。

慈悲の瞑想によって、これまで埋もれていた慈しみを培い、自分や他者に対する心地の良い、温かい気持ちを育むことができる。

慈悲の瞑想の実践は、まず自分自身の幸せを願うことから始める。身体をリラックスさせ,四つのフレーズを、心地が良いと思う間隔で繰り返す。

もし気が散ったとしても、思考や感情だとただ気づいて手放し、またフレーズの繰り返しに戻す。

温かく、優しい感情が湧き起こってくることがあるが、それも心に留めておき、フレーズの繰り返しに戻す。

慣れてきたら,少しずつ対象を恩人,親しい人,中性の人(ポジティブ感情もネガティブ感情も抱かない人)、嫌いな人、生きとし生けるもの……と拡張し、「私の恩人も、親しい人も、知らない人も、嫌いな人も、私を嫌っている人も、生きとし生けるものすべてが幸せでありますように」と願う。

人間関係のさまざまなトラブルで深く悲しむことがあったとする。頭の中は「こうしたかった,これができない私がダメだ、もう何もできない」と自分を責める声でいっぱいで涙が出てくる。

そうしたときに、慈しみを持った自分自身をイメージして、悲しんでいる自分に対して「すごく落ち込んで涙が出てきます。その気持ちはよくわかるよ」と理解を示すような言葉で包み込み、優しく抱きしめる(図1)。

そして、2、3回優しく呼吸をしてから呼吸のリズムに合わせて「私が悲しみから解放されますように」「私がダメな人間とか、間違っていると考えることなく、この痛みを受け入れられますように」「私の思考が慈しみの思考になりますように」といった自分で選んだフレーズを繰り返す(慈悲の瞑想)。

瞑想中に、様々な身体の感覚,穏やかな気持ちになる瞬間に気づくことがあるが、そのとき「悲しみ」や批判的な考えを手放せていることにも気づく。

これは,困難な感情でも,セルフ・コンパッションを高めることで『あるがまま』の自分を受け入れることができる例である。

怒りが癖になっている人は、慈悲の瞑想中でも悪いところを探して「しまった。集中ができていない」「優しい気持ちなんて感じない」といったように、『こうありたい』自分からずれて怒り、「瞑想だから怒ってはいけない」とまた怒る傾向にある。

「怒っている」という『あるがまま』の自分を受け入れるときにも、悲しみの場合と同じように、「怒っている」自分自身に気づき、「私が穏やかでいられますように」「怒りやイライラが、私のこころに起こりませんように」といったフレーズを使って慈悲の瞑想ができる。

5.セルフ・コンパッションから『あるがまま』の受容へ

図1 自分をやさしく抱きしめる

セルフ・コンパッションが高まると、様々なことに気づいて受け入れられるようになり、本当に自分のためになっているもの、喜びや幸せ、命を培っているものに意識が向いてくる。

親しい人、愛する人、また自分を育ててくれた自然な、感謝や幸せを感じる対象がどんどん増えてくる。

そして、愛する人や動物やモノや自然をちゃんと大切に愛する時間が貴重であることが分かってくる。

様々な人に慈しみの気持ちで接することができるようになり、他者からも慈しみで接してもらえるようになる。

例えば、他者の幸せを願いながら話しかけたり,手助けをすれば,その人たちとつながって支え合って生活ができる。

それは、お互いに幸せが感じられる瞬間であろ
う。慈しみは自分や他者や知らない人たち、あまねく生命を差別することはなく、すべてを受け入れる感情である。

自分自身から生きとし生けるものにまで慈しみの気持ちを広げると、私たちが最終的には生命をもつ存在であるという点ですべては共通していて、お互いに『あるがまま』を認めて支え合っていくことが、幸せの形であることが理解できる。


参照元:
「公益社団法人 日本心理学会」
著者:
関西学院大学文学部 教授  博士(心理学)
有光 興記(ありみつ こうき)氏

以上

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