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小説 スズキ氏の聞いた話(2)

 スズキ氏の知人に、仁進にしん氏という男がいる。彼がいつだったか、スズキ氏に語った話。


 仁進氏の育ったところというのは山奥の寒村で、学校といったら小さな分校がたったひとつ、それも通うのは四年生まで、五年生からは遠くの町の本校までバスで一時間以上かけて通学する、そんな場所だったのだと言う。分校に通う生徒の数も、一年生から四年生まで全員合わせても二十人を超えなかった。少なくとも、仁進氏の通っていた四年間はそうだった。
 そんな学校だったから、年下の子も年上の子もなく、まるで全校生徒がクラスメイトのようなものだったと仁進氏は言う。

 スズキ氏が、まるで「二十四の瞳」ですね、と言うと、仁進氏は、そうなんだ、と少し照れくさそうな、同時にどこか誇らしげな、そして幼少の思い出を大事に懐かしむような微笑みを浮かべた。ただ、ぼくが通っていたのは海沿いではなくて、山の中の学校だったのだけれどね、と付け加える。

 教諭が二人、定年前の年配の男性教諭と、大学を出ていくらも経たないような若い女性教諭が勤務していたのも「二十四の瞳」と同じだった。男性教諭も女性教諭も優しい人物で、分校に通った四年間の思い出は、仁進氏にとってはたいそう楽しいものだったと言う。

 そんな楽しい四年間のうちで、しかしどうにも不思議なことがあったのだ、と仁進氏は言う。

 具体的にそれがいつのことだったか定かではないが、半袖のTシャツを着ていた記憶があるから、おそらく夏の暑い盛りであったと思う、と仁進氏は言う。
 その日、仁進氏は学校に宿題のプリントを忘れて、放課後に校舎に戻ったのだと言う。日の暮れかかった時分で、木造の小さな校舎の中には人影のひとつも無い。もしかしたら職員室のほうには、教諭のどちらか、あるいは校務員の一人でも残っていたのかもしれないが、仁進氏はそのとき、教室に着くまで、誰とも出会った記憶は無い。
 全校合わせて生徒数が二十人に満たないとは言え、昼間はあれほど賑わっていた学校が、夕方のこの時間ともなると、ひっそりかんと静まり返って怖いほどだった。仁進氏は、思わず身震いしたと言う。

 どきどきと妙に鳴る心臓をなだめながら、ともかくも自分の机にたどり着き、目当てのプリントを探し出して、仁進氏はひとまずやれやれと一息ついた。これで安心して帰れると教室の入口を振り返ったときに、それを見たのだと言う。

 女子、だったと思う。たしか、白いブラウスに、赤い吊りスカートを履いていたのを見た。

 仁進氏は、記憶を深くさぐるように軽く眼を閉じ、眉間を揉みながら言う。

 けれど、おかしいんだ。ブラウスとスカート姿で、確かに当時のぼくと同じくらいの年頃の女子だったと思うんだけれど……どうしても、顔が、思い出せない。

 仁進氏が現在思い出せる印象としては、クレヨンか何かで、その女子――というか、女子、だったのだろうか――の顔のあたりだけをでたらめにぐしゃぐしゃと塗りつぶしてあるようだったと言う。もっとも、視覚的にそのように見えていたのかどうかは、やはり思い出せない。何にせよ、詳細な顔の造形がどうだったのかはどうしてもわからないのだと、言う。

 同級生は片手の指で足りる人数だ。どころか、全校生徒の中にも、仁進氏が顔を知らないものは一人としていない。それなのに、その赤い吊りスカートの女子生徒の顔は、記憶のどこを探しても見つからなかったのだと。

 仁進氏の背中を、冷たいものがぞうっと駆け上がったと言う。

 この女子生徒は、やばい。

 理由はわからないが、仁進氏は本能的にそう思ったと言う。
 女子生徒が立っていたのは、教室の前側の出入口だった。仁進氏はできるだけゆっくり、物音を立てないように――音を立てたらそいつに気づかれるかもしれないという懸念もあったし、そもそも恐怖のあまり素早く動くことができなかったせいもあった――後ろ側の出入口のほうから廊下に脱出した。

 振り返れなかった。なんだかわからないけれど、怖くて怖くてねえ。

 仁進氏はそのまま、まるで蝸牛が這うような速度で廊下を歩いて、隣の教室に滑り込んだ。どうしてそうしたのかはわからない。

 思い返せば、さっさと外に出て帰ってしまえば良かったんだけど。その前に、あれの目の届かないどこかに隠れたかったのかもしれないねえ。

 入口から遠い方へ――窓際のほうへと、机の陰に低く屈んだまま、仁進氏は移動したのだが。

 まあ、間違いだったんだよねえ。だって、そこに居たんだものね。

 思わず、漫画みたいなヒッという声が出たと言う。後ろにいたはずの女生徒、ブラウスに吊りスカートの、顔の印象がどうしても思い出せない女生徒が、今度は窓の外に居たのだと言う。
 教室は一階だ。窓の外に立っている姿が見える、そのこと自体はおかしくはない。しかし、女生徒は、自分がいましがた後にしてきた隣の教室入口のところ、つまり屋内に居たのではなかったか。仁進氏の動きがゆっくりだったとは言え、外に出てそこに立つまでのことが、こんなに素早く、音もたてずにできるものだろうか。

 こっちを見ている――なぜか、仁進氏はそう確信できたと言う。

 じいっとね、見ているんだよね。目元の造形すら良くわからないのに、なんでそう思ったのか本当に不思議なんだけれど。

 目を離せないまま、それでも、仁進氏は再びじりじりと後ずさって、その教室もどうにか脱出した。女生徒はずっとこちらを凝視していた――あるいは、仁進氏にはそう感じられた――が、仁進氏が見ている間はそこから動くことはなかった。

 追われている。
 仁進氏の心臓は早鐘のように打ったが、しかしどうしても、そこから走って逃げることはできなかった。どうしても、ゆっくりとしか動けないのだ。

 完全にすくんでいたんだよねえ。腰が抜ける寸前だったんじゃないかな。

 苦笑めいたものを浮かべて、仁進氏は言う。どこか懐かしそうに。

 ほとんどべそかき混じりに、ひいひいと荒く浅い呼吸を漏らしながら、たどり着いたのは保健室だった。

 扉は施錠されていなかった。それに震える手をかけ、古びてきしむ音をたてるのにすらひどく怯えながらも、仁進氏はなんとか中に滑り込んだ。
 小さな分校で、保健室もそれほど広くはなかったが、衝立と簡素なベッドがあり、消毒薬や包帯などの衛生用品が納められた棚があり――と、見慣れた光景に、仁進氏はやや平静を取り戻したと言う。

 なぜ保健室を目指したのかはわからないけど、いま思えば、怪我や体調不良のときはいつも助けてくれるし、困ったときに頼るのはここだ、と考えたのかもしれないね。
 養護教諭は非常勤で、毎日は居なかったんだけれど。普段は若い女性教諭がその代わりをしていて。その日はどちらの先生が保健室の担当だったのかさすがに覚えていないけれど、鍵をかけ忘れてくれていたのは本当に幸運だったな。

 保健室のいちばん奥まったところに、養護教諭のデスクがあった。仁進氏はなんとかそこまで行って、その陰に身を潜めたのだと言う。

 じっと息をつめてしゃがみこんでいると、足音を聞いたと言う。
 あの吊りスカートの子だ、と直感して、仁進氏はさらに小さく縮こまった。

 ひた、ひた、と聞こえるのは、廊下を歩く裸足の足音だった。上履きを履いていないようだ。身動きをしないようにしながら、それでも仁進氏はなんとか首を伸ばして、保健室の入り口のほうを見やった。扉は閉めてある。が、引き戸の上部は透明なガラスが嵌め込まれており、そこから外の様子をうかがうことができた。
 果たして、ガラス越しに姿を見せたのは、あの吊りスカートの少女だった。息を呑む。デスクの陰から目だけを出して、仁進氏は体を固くした。どうか気づかずに通りすぎてくれ――
 仁進氏の祈りが通じたように、吊りスカートの少女は室内に顔を向けることもなく、ガラス窓の外をゆっくりと通りすぎて行った。仁進氏は安堵の息をつく。
 ひた、ひた。足音は保健室の前を通過し――一度、止まった。仁進氏が怪訝に思った刹那、

 ふふふ。ふ、くっ、くく。うふふふ。

 夏の盛りで汗だくだったというのに、それが一瞬ですべて凍りついた気がしたと言う。
 笑い声だった。忍びやかな、しかし、楽しくて楽しくてたまらないというような。

 吊りスカートの子の顔を見たわけではないよ、もちろん。もっとも、見たところで表情なんてわからなかっただろうしね。でも、なんでか理解できてしまったんだよな。笑っているのは、あの子なんだ、って。

 その笑い声があんまり楽しそうで――それが、自分が置かれている状況にあまりに似つかわしくない気がして、それが仁進氏を心底から恐怖させたのだという。
 ひっそりかんと静まり返った校舎も、オレンジ色を濃くしていく太陽の光も、やけに遠くから聞こえてくるセミの合唱も、ただただ、今の状況に対してひどくアンバランスで。


 そこからの仁進氏の記憶は曖昧だと言う。気がついたら、わあわあ泣きわめきながら通学路を自宅に向かって走っていたと言う。途中で何度も転んだらしく、打ち身や擦り傷をしこたまこしらえていたが、不思議とその痛みはまったく気にならなかったと言う。

 そんなに泡を食っていたのに、取りに行った宿題のプリントは最後までしっかり握りしめていたんだよねえ。あんなに怖い思いをしたのに、考えると可笑しい気がするんだけどさ。

 仁進氏はくすくす笑って、そんなふうに言う。
 さらに続けて、

 これは、いまにして思えば……という話なんだけど。
 あの子のことをあんなに怖がって、ちょっと悪かったかなと思えるんだよね。背格好からすれば、あの子はどうやら当時のぼくと同じくらいの年頃だったし、それなら、もしかしたらあの分校に縁のある子だったのかもしれない。

 仁進氏は、遠くを見るような目をした。過去を懐かしんでいるようだった。自分の大事な、かけがえのない思い出を。

 ぼくの同窓生なのかもしれないよね。先輩だったのかも。あのとき一人で忘れ物を取りに行ったぼくに――きっとひどく心細そうな顔をしていたぼくに、ちょっとちょっかいをかけに来ただけなのかもしれない。あの子も、寂しくて心細かったのかもしれないよ。だから、

 仁進氏は、にこにことスズキ氏を見つめた。それは懐かしさと慈しみと、一種の愛情に溢れた微笑だった。

 できることなら、もう一度あの子に会いたいとすら思うんだよね。最後に楽しそうに笑っていたあの子。きっとあの子も、あの学校で楽しく過ごした子なんじゃないかな。ぼくと同じように。
 ああ、懐かしいな。あの学校で過ごした四年間は、本当に楽しかったんだよ。田舎の学校で、生徒は少ないし、先生だって二人しか居なくて。だけど、素朴であたたかくて、本当に、楽しかったんだ――懐かしいなあ。

 微笑みながら楽しそうに語る仁進氏に、スズキ氏はただ黙って耳を傾けた。


 仁進氏の言うとおりなのかもしれない。吊りスカートの少女は、学校に縁のあった何かで、素朴な小学生の見た目のとおりに、害のない無邪気なものなのかもしれない。学校に忘れ物を取りに来た仁進氏にひかれて、ただ姿を見せたというだけなのかもしれない。
 しかし、スズキ氏の心にわずかに引っ掛かるものがある。
 仁進氏の話では、吊りスカートの少女は、最初は教室の入り口に立っていて、次は窓の外からこちらを見ていて、最後には保健室を素通りして行った。

 彼女――というか、彼女、なのだろうか――は、教室内には、一歩も入ってこなかったのだ。

 たしかに姿は小学生のようだった。しかしどうやら上履きを履いておらず、裸足のまま歩き回っている。
 そして、顔の印象はどこにもない。クレヨンででたらめに塗りつぶされたように。

 それは本当に害のない無邪気な小学生だったのだろうか。あるいはもっと別の――小学生を装った、なにかではなかったか。だから教室には足を踏み入れず、その周囲をうろついていたのではないのか。その目的はもちろん、わからないけれど。

 ただ、スズキ氏の前で幼時の思い出を語る仁進氏があまりに楽しそうで、スズキ氏はそれ以上何も言えないのだった。
 「どうにも不思議」で、「アンバランス」な、現実の世界のことと思われない思い出。
 にも関わらず、あるいはだからこそ、その思い出を心底から懐かしみ、穏やかな表情で笑いながら仁進氏は語り続ける。

 自分の感じている違和感が、ただの思い過ごしなら良い。仁進くんが語るように、それは、恐ろしい思い出ではあるけれど、同時に彼にとって懐かしい、大事でかけがえのない思い出にすぎないのなら良い。

 だから、スズキ氏は仁進氏の話を――恍惚としてさえ聞こえるその語り口を、曖昧に笑って相槌を打ちながら、ひたすら最後まで聞くしかなかったのだった。
 人の大事な思い出に茶々を入れるほど、無粋なことは無い。

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