小説 スズキ氏の聞いた話
スズキ氏の知人に、濱地氏という男がいる。彼がいつだったか、スズキ氏に語った話。
夢を見るのだと言う。それも、かなり頻繁に、同じような夢を繰り返し見るのだと。もしかしたら今夜にも同じ夢を見るのかもしれない、と言う。
夢の中で濱地氏は、どことも知らない暗闇のなかにいる。目の前の自分の手もわからぬような濃い闇で、自分が立っているのか座っているのか、それどころか目を開いているのか閉じているのかも判然としない。上も下も右も左も前も後も存在しない、ひたすら暗いだけのその場所は、しかし夢に見たときには不思議と、ああ、ここは以前にも夢で来た場所だ――と、濱地氏にはわかるのだと言う。
闇のなかでぼんやりとしていると、遠くか細く、雅楽のような調べが聞こえてくる。知識のない濱地氏には詳しくわからないが、正月によく聞く越天楽を間延びさせて、さらに暗く陰気にしたような感じの曲だったと言う。
曲を聞いているうちに、闇のなかに何かが浮かび上がってくる。目を凝らしているうちにそれはだんだんとはっきりと見えてくる。
見えてくるのは、鳥だと思う、と、濱地氏は言う。言ってから、いや、鳥のように見えるが、本当は違うのかもしれない、と、濱地氏は言葉を濁す。
最初は鳩くらいの大きさだったと言う。それが、夢を繰り返して見るうちに、鴉くらいの大きさになり、海猫くらいの大きさになり、白鳥くらいの大きさになり、今では、昔動物園で見た大鷲よりもふた回り以上は大きくなっているのだと言う。このまま夢を見続けたら、そのうち「シンドバッド」の怪鳥ロックくらいの大きさになるかもしれないな、と、濱地氏はうつろに笑う。
それを、鳥、と言い切れなかったのには理由がある。それは濱地氏の知るどんな鳥とも異なった見た目をして――ありていに言えば、濱地氏の知るどんな鳥よりも、おぞましい姿をしていたからなのだと言う。
全身を覆う羽毛は厭らしく毛羽立って縺れ、鳥のシルエットをそれはそれはすさまじいものにしている。觜は大きく長く、また恐ろしいほど鋭い。下方向に向かって湾曲したかたちは、まるで死神の大鎌だ。羽毛の色は、南国の鳥たちの派手派手しいそれをすべて集めて出鱈目に捏ね合わせたようで、毒々しく無秩序な色の洪水に眩暈がする。ふたつの目はあたかも汚泥の底のように濁っていて、濱地氏の心中に、いわく言いがたい不安と恐怖を掻き立てた。しかし、そんなものより何よりおぞましかったのは、その鳥の両の脚だった。
手、だったんだ、と、濱地氏は言う。その鳥の脚は、人間の腕――肘から下の部分の、そのままのかたちをしていたのだと言う。その脚は――いや、手は、なにやらねじくれた止り木のようなものをしっかりと、ひじょうな力で掴んでいるのだと言う。指の関節から血の気が失せて白くなるほど、強く。
鳥を見つめる濱地氏の身体は、恐怖のためか嫌悪のためか、かたくこわばって指一本動かない。まぶたを閉じることすらできない。汚濁の色をした鳥の瞳も、濱地氏を一心に見つめ返している。おぞましさのあまりに、濱地氏の胃が強い吐き気を訴えてくる。
鳴り続けていた雅楽の音色が、そこでいっそう高まる。それに合わせて、鳥はいつも高らかに笑うのだ、と濱地氏は言う。
そう、あれは笑い声だ。単なる鳴き声なんかじゃない、間違いない。あれが意味のない音にすぎないなんて、そんなことはあり得ない。
濱地氏は疲れたように、大きな嘆息を漏らす。
耳をつんざくようなけたたましい哄笑が、鳥の湾曲した觜から、ものすごい勢いでほとばしる。上下の觜は、信じられないほど大きく開かれて、その奥にぬめぬめと光る舌が踊っている。いやらしいことに、觜には上下とも、細かな歯がびっしりと並んでいるのだ。古代の始祖鳥のように。記憶力の良い方ではけっしてないのに、なぜそんな、夢の中のことのささいなディテールまではっきりと覚えこんでしまうのか、濱地氏にはわからない。
鳥の哄笑はひどく不快なのだ、と濱地氏は言う。耳から入って全身を内側から蹂躙するがごとくの轟轟たる音量もさることながら、それはまるで生爪で黒板をひっかくような、あるいはアルミホイルの塊を奥歯で思いきり噛み締めるような、そういう生理的な不快感を極限まで高めてくるような、そんな声なのだと。
その声は、おれに呼び掛けているのだよ。嘲笑いながら、たからかに哄笑しながら、それはまさしく、おれに話しかけているのだ。おれに。
おぞましい……と、濱地氏は頭を抱えて呟く。
何と言っているかって? 知りたいか? 本当に?
それはもちろん、日本語ではない。ねじ曲がった觜からほとばしる狂気の大音声は、とても常人の理解できるものではない。しかしそれにも関わらず、濱地氏には、それが何と言っているのか、彼に何を語りかけているのか、言語的にではなく感覚として、理解できたのだと言う。理解できてしまったのだ、と。
おれは、おれは、怖い。あの鳥が怖い。あの鳥の脚で……いや、腕か……あれで、掴みかかってくるわけでもないのに。あの觜が肉を啄もうとしているというのでもないのに。あの鳥が、それでも怖い。怖くて怖くてたまらない。あれは、あれは、おれに。
そこまでスズキ氏に話して、濱地氏は突然黙ってしまった。
座っていた椅子から、ゆっくりと立ち上がる。やせぎすの体が、酔っているわけでもないのにふらふらとゆらめいて見える。
濱地氏は続ける。
こんな話をして、悪かったな。おれは、そろそろ帰らなければ。明日も早いんだった、さっさと休まないとな。
濱地氏の顔は笑顔だったが、その顔は奇妙にひきつって、笑っているというより何かに怯え慄いて、恐怖のあまり泣き出す寸前の顔のように思えた。
勘定を済ませ、背中を向けて立ち去る寸前の濱地氏の唇から最後にこぼれた言葉を、スズキ氏の耳は聞き取った。
そうだ、さっさと休まないと――また、あの鳥に会わなければいけない。今夜も、あの鳥の言葉を聞かなければならないんだ。
スズキ氏には、いまもって、濱地氏の言う「鳥」の正体はもちろん、その「鳥」が濱地氏にどんなことを言っていたのかわからない。見るも禍々しい姿をした、この世のものとも思われない、いわく言いがたいけたたましい声で笑う鳥。その言葉を夜ごと聞き続けて、いったい濱地氏はどうなってしまったというのか。忌まわしい、人間の腕のかたちをした脚を持った鳥に、あれほど怯えていた濱地氏は。
スズキ氏には、わからない。
ただひとつわかっていることは、濱地氏はもうこの世に居ないということだ。
末期の癌だったのだそうだ。病巣の位置が悪く、発見されたときにはもう余命いくばくもなかったのだという。スズキ氏と会ったときにはまだ一人で歩いて食事も酒も普通に摂り、元気なものだった――奇妙な鳥の夢に怯えていた以外は――のだが。
濱地氏はあれからすぐに入院することになり、あとはみるみる衰弱し、最後には病室のベッドにうずもれるように小さくなって、本当にあっという間にこの世を去ったのだという。強力な鎮痛剤によるものか、臨終のときまで朦朧としてはいたものの、最期は意外にも穏やかなものであったらしい、とスズキ氏は聞いた。
その眠るようないまわの際、濱地氏はやはり、夢を見たのだろうか。彼があれほどまでに怯え忌んでいた、あの奇妙で恐ろしい鳥の夢を。だんだん体格が大きくなると言っていたあの鳥は、最後にはどれほど大きく圧倒的な、おぞましい姿になっていたことか。それに相対せねばならなかった濱地氏の心中はいかばかりであっただろう。
スズキ氏には、想像することしかできない。また、濱地氏の臨終が見た目どおりに穏やかで苦痛のないものであったことを願うしか。
――そうだな、濱地くんの気持ちを、おれには想像することしかできない……少なくとも、今はまだ。
スズキ氏は、濱地氏と最後に話したバーの、同じカウンター席で、同じ銘柄のウイスキーをロックで傾けている。馴染みの香りと、アルコールの熱い刺激を、一口ぶん喉の奥に流し込みながら、ちらりと自分の背後を伺う。
そこには、鳥がいる。いや、それを「鳥」と呼んでも良いものかどうか、スズキ氏にはわからない。それは、スズキ氏の知るどんな鳥よりも、おぞましい姿をしている。毒々しい色がごちゃごちゃと混ざりあい、縺れ毛羽立った翼、死神の鎌そのままに湾曲し、細かい歯がびっしり並んだ巨大な觜、渫ってきた汚泥を固めたような双眸、そして人間の腕とそっくりな脚が、関節が白くなるほど強い力で、止り木を掴んでいるさま。
スズキ氏が気がついたときには、いつもその鳥は背後にいる。スズキ氏の理解できない喃語のような言葉を始終もぐもぐと呟き、人間がするのとそっくりに肩を揺らして、なにか可笑しくて仕方ないというように笑い続けている。
――あの鳥が怪鳥ロックよりも大きくなって、笑い声がさらにたからかに、さらにけたたましくなって、呟く喃語の意味がわかったときには、きっとおれにも、濱地くんの気持ちを心底から理解できるに違いない。
スズキ氏は願う。濱地氏の臨終が穏やかであったことを。心から願う。自分のそのときも、眠るように安らかで、平穏であろうことを。
鳥のさえずりが耳に入ってくるのを止めるすべもなく、スズキ氏はグラスに残った琥珀色の熱い液体を、ひといきに胃の腑の底に呑み込んだ。
【画像引用元】
Manfred Richer(Pixabay)
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