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森山至貴 X 四元康祐 往復書簡 「詩と音楽と社会的現実と」:第7回

vol 12: from M to Y

昨日一昨日と、日本社会学会の大会に参加してきました。社会学の学会は日本に複数あるのですが、その「総本山」とでも言えるのがこの学会です。今年度は各地からのアクセスがよい東京での開催ということもあって、ベテランから若者まで、かなり多くの研究者が参加しました。私自身も、研究発表をしたり、シンポジウムで討論者をつとめたりしました。

これは完全な推測でしかないのですが、四元さんがいつもその活気を伝えてくださる詩祭というものに一番近いのが、私の生活の中では学会なのだと思うのです。別々の地方で働いているので普段はなかなか会えない旧友に会ったり、自分と問題関心の近い同業者と知り合ったり、「知り合いの知り合い」みたいな人となんとなく一緒にランチをとったり、かと思うと出版社員と研究者とで名刺交換してみたり…一言で表現すれば「社交」ということになるのかもしれませんが、そういったやりとりの全体が、いつも淀んだ空気を湛えるだけの教室やら廊下やらを非日常の舞台に変える。その何とも言えない浮遊感は、きっと詩祭と似ているのでは、と思うのです。

社会学者たちが慣れないキャンパスの中をうろうろしながら、それでもなんだか解放感に満ちた表情をしているのは、きっと会議や授業といった校務から離れて、純粋に研究のことだけを考えていればよいこの2日間が楽しいからだと思います。少なくとも私はそうです。研究者は研究をするのが「仕事」のはずですが、実際には会議や授業といった「仕事」の対価として、給料や大学図書館の利用権、運が良ければ研究室や研究費などを受け取り、余った時間と労力を使って研究しているというのが正直なところです。だから、本当は取り組みたいのになかなか取り組めない研究にどっぷりと浸れるこの2日間は、研究者にとって快楽をもたらすものであるはずです(もちろんこの快楽は、大会にまつわる実務を大量にこなす運営側の研究者たちの犠牲の上に成り立っているわけですが…)。

唐突ですが、「うたげと孤心」における「うたげ」をそういうものだと解釈したい気分が、私にはあります。すなわち、それぞれの置かれた立場(や場合によってはその困難)との連続性と切断可能性がともに確保されつつ、そこに快楽が、あるいは他の言葉に置き換えれば自由が存在している。学者らしからぬ乱暴な議論だなあとは思うのですが、しかし私にとっては「公(public)」というのはそういうものであるべき何かです。

そしてさらに乱暴な印象を綴ってしまえば、現在の日本においてはこの「公」というものが大きく切り詰められているように思うのです。他者と共在するのであれば義務を負え、という命令が「国家」の名において反復的に投下され続け、それを拒むもの、拒まざるをえないものが見捨てられる。「うたげと孤心」ではなく、「孤立か服従」。少なくともそれは、私にとっては悪夢です。

したがって私たちは、「うたげ」を取り戻さねばならない。私はここで、さらに乱暴なことを言ってしまいたい誘惑に駆られます。詩が「うたげと孤心」の総体であり、その成立がこの助詞「と」に懸かっているのであれば、詩は、「孤心」が「うたげ」との関係を取り戻すための一つの有効な手立てになるのではないか。そして、そこに「クィア」という言葉を冠することもできるのではないか。クィアは、おそらく「孤心」の特徴や有りようではなく、むしろ気まぐれで制御不能でそれゆえに豊かである、そういった「孤心」と「うたげ」の結びつきの謂なのではないでしょうか。とすればクィアな存在、あるいは営為としての詩もまた、気まぐれで制御不能でそれゆえに豊かで、それゆえに悦ばしき「公」を可能にする、あるいは回復するものであるように思われます。

あまりにも多くのものを連想ゲームのように繋いでしまいました。「うたげと孤心」としての詩=クィア、そして回復されるべきものとしての「うたげ」=「公」。他のクィア・スタディーズの専門家から石を投げられそうです。石を投げられる前に、クィアの特徴をもう少し掘り下げつつ、この連想ゲームをブラッシュアップしてみようと思います。

その来歴上、クィアという言葉と「公」という言葉の関係はもっと厄介です。クィアという語の中には「体制(順応)的な意味を転覆する」というニュアンスが含まれていますので(そもそも「クィア」は男性同性愛者やトランスジェンダー女性に対する侮蔑の言葉で、それを当事者が逆手に取って抵抗に使用するのが重要なのです)、クィアが「公」を可能にするor回復させる、というのは語感としてかなり変です。なんというか、クィアという言葉はもっと世の中に対して「好戦的」なのです。他方、この語はセクシュアルマイノリティの社会運動に根付く、その意味で社会正義の実現を希求するものでもあるので、「公」に全く敵対的なわけでもありません。

したがって、クィアの思想の「公」に対する態度は、こんな風に言語化できるかもしれません。すなわち、「行儀の悪い仕方で生き、しかし理想を求める」。その結果として悦ばしき「公」は実現する、かもしれない。そしてここで私は、クィアの「公」に対するこのような態度にこの詩句をあてはめたい、と思ってしまうのです。つまり、それって「単調にぼたぼたと、がさつで粗暴に」ってことなのではないか、と。韻文と散文の間の緊張関係に根ざす朔太郎の発言をここに当てはめるのは、やはり乱暴でしょうか? しかし私たちは、もしかしたら最初からこの話をしていたのではなかったか、とも私は言ってみたくなります。詩と「公(public)」なものの関係を、四元さんはどうお考えですか? 三島の思い出話とともに、ぜひ教えてください。

『笑うバグ』をもともと『日本経済新聞への脚注』と呼んでいたという話、とても面白いと思います。クィア・スタディーズの源流の一つにフランスのジャック・デリダという哲学者がいるのですが(「脱構築」という言葉はご存知ではないでしょうか?彼が広めた言葉です)、彼が確かこんなことをやっていました。サールという人の哲学に噛み付いた時に、サールが例外的な事項として脚注で記述していた箇所にこだわることで、その箇所が本文中の議論を破壊してしまうことを示した、少なくとも示そうとしたのです。本文と脚注の主従関係を「脱構築」したわけですね。ですから、「脚注」という語を冠していた(はずの)詩集がある種の転覆的な価値を持つことは、私にとってはとても得心がいきます。

他方で、脚注という文章の作法は、詩にとって、あるいは少なくとも韻文にとっておいそれと導入することが難しいものではないかと思います。すなわち、私たちはひと繋がりの言葉たちをリニアに朗読することしかできないからです。脚注の作成は言葉の間に一直線の進行から漏れる階層関係を設定することなので、本質的にリニアであろうとする韻文のあり方と逆立するのではないでしょうか。仮に本文を読みつつ脚注に飛んでそこを読み上げたとすれば、それは言語表現の階層構造を朗読しながら平板でリニアなものになるように壊してしまったことになるわけで…。

もちろん、目で読むことを想定した詩だっていくらでもあるとは思います。脚注に限らず、フォントやレイアウトなど、それこそ「現代詩」の分野においてたくさんの技法が開発されてきましたよね。そういった詩を作る場合には朗読の線的性質は全く問題にならないと思います。でも、やはり音読することを想定している詩でそういった技法を使うのは難しいのではないでしょうか。少なくとも私は、どんなに面白い詩であっても目で読むことを想定した詩には作曲しないと思いますし、したこともありません。…でもよくよく考えてみると、合唱の場合は複数のパートに異なる言葉を歌わせることが可能なので、本文と脚注を同時に歌ってもらえばいいわけですよね。そこは詩の朗読よりは自由度が高いと思います。

そう考えると、他ならぬ詩そのものの原初形態であるところの朗読こそ、詩にとってもっとも不自由な表現形態なのかもしれない…これはとても気になります。そこで四元さんにお尋ねしたいのですが、「現代詩」の分野において、「朗読の不可能性」を抱える詩について、詩人たちは何を思っているのでしょうか。詩祭やリーディングイベントの盛り上がりは詩を朗読することの未だ尽きぬ魅力を証明していると思うのですが、しかし一方で大きな書店の詩のコーナーに行けば、デザインやレイアウトを捨象することができない詩が年々多くなっているようにも私には見えます。もちろん、視覚詩自体の歴史もそれなりにあるので、ここ数年の「詩の黙読化」というわけでもないとは思うのですが(草野心平とか、視覚詩をたくさん書いていますよね?)。

ここでもまた韻文の話に回帰しつつの質問となります。「声に出して読めない詩」を、私たちはどう考えたらよいのでしょう?

早稲田大学で詩祭、いいですね。詩人や文学畑の学者だけでなく、自然科学や工学・情報科学の専門家も呼んで。AIは東大入試に合格できるのか、というプロジェクトがありましたが、AIに鮎川賞や中也賞、朔太郎賞が獲れるのか、とか議論してみることもできそうですね。あるいは統計のできる社会学者に調査してもらって、「どのくらい『韻文』っぽくなると人は言葉を「詩」と捉えるのか」を明らかにする、とか。シンポジウム、リーディングイベント、コンサート、詩集の即売会、レセプションにエクスカーション(講談なんかを観に言ってもよいかもしれません、あれはリズムと呼吸の芸術ですし)。やりたいことはいっぱいあります。誰か一緒に組んで企画してくれないかなあ…しかし、実現するとしたら私は明らかに運営側のスタッフということになるわけで、とすれば「うたげ」を楽しむ余裕はまったくないのでしょうが…。もし実現したら、ぜひ四元さんもドイツから駆けつけてくださいね。

2017年11月6日

Vol 13 from Y to M

森山さんから前便をいただいたのが、日本に到着した直後の11月6日。それから三島へ移動して9日から丸三日間、朝九時から夕方六時まで五人の連衆で一日平均十六・七篇の連詩を製作、12日には全四十篇からなる「岡を上りきると海」の巻を聴衆の前で朗読発表。それからまだ一週間しか経っていないのですが、なんだかすごく昔のことのような気がしています。一種の虚脱状態でしょうか。くぐり抜けて来た体験が生々しくて、余韻冷めやらないにも関わらず、そこから遠く弾き飛ばされてしまったような感じなのです。

今回の連詩は、四月に亡くなった大岡信さんを偲ぶ気持ちをこめたもので、大岡さんの故郷である三島の町で、親友の谷川俊太郎さんや娘の大岡亜紀さん、最近は作詞から歌い手に転身しつつある覚和歌子さん、そして宗匠役の野村喜和夫さんと行ったものですが、これまに参加したどの連詩よりも楽しく、意外な展開や小さなドラマに満ちたものとなりました。連詩というのは、出来上がったテキスト以上に、そこへ至る過程を味わうべきものですが、少なくとも参加した五人にとって、その思いは共通するものだったようです。

充実の理由を一言で言うならば、五人の詩人たちの気心が知れ、息が合ったということになるでしょう。ただそれだけでは言い足りないし、誤解を与えてしまう気もします。僕たちは終始和気藹々としていましたが、いざ連詩が始まると、互いに遠慮なく、時には情け容赦もなく「ダメ」を出し合ったのです。「ダメ出し」というのは通常その「座」の宗匠が、全体の流れを見渡しながら、ひとつ一つの「付け」について注文を付けて、やり直しを命じたりする特権ですが、今回はなんとなく一回ごとに全員が協議してその付けの可否を決定するという形になったのでした。

ひとりの詩人が必死の形相で自分の番の詩を捻り出している間、残りの四人は気楽な雑談に興じているのですが、詩が提出されるや否や(出来上がった詩は紙に鉛筆書きして、宗匠に差し出すというしきたりです)、僕らは一斉に宗匠・野村さんの周りに駆けつけます。そして貪るように新しい詩の草稿を読むのです。ただひとり例外は谷川さんで、彼だけは自分の席に座ったまま。その詩を書いた当人の発言にはあえて耳を閉ざし、あくまでも清書され活字となったテキストだけを頼りに、自分の次の一手を繰り出すという冷徹な姿勢を貫いていました。もっともその谷川さんが誰よりも深く広く連詩の進行を読み取っていて、時折ポツリと決定的な助言・苦言を呟いて下さるのでしたが。

自分が渾身の力を込めて書いた詩行を、他人の冷めた目で品定めされた挙句、書き直しを命じられるというのは酷なものです。特に詩の世界だと、小説と違って、ふだんひとりで書いている時も編集者から質問や注文がつくことは滅多にありませんから、慣れない詩人だったら怒り出したり、逆に萎縮してしまうかも知れません。我々の和気藹々に創作上の意味があったとすれば、そういう批評を互いに許し合う精神的な絆として機能したということでしょう(実は谷川さんを除く四人は、数年前にも同じ「静岡連詩」で一度顔を合わせていたのです。その結束に乗じて、我々はなんと谷川さんにまでダメを出したのでした)。

今回僕が気づいたのは、和気藹々だけではない、もう一歩踏み込んだ、共通の批評基準があったということ。僕らは暗黙のうちにその基準を打ち立て、共有し、あくまでもその基準に従って「ダメ」を出したり、これはすごい!と仰け反りつつ承認したりしていたのです。

具体的にどんな基準かというと、まず「後戻りしてはダメ」「常に前へ」、これは大岡信さんが口を酸っぱくして言っていた連詩の大原則。同じ言葉をなんども繰り返したり、先行する主題に立ち戻ったりすることを連詩は嫌うのですね。あと「付け」方があまりにも当たり前だったり(「ベタ付け」)、逆に突飛過ぎたりするのもいけません。そして何よりも大切なのは、いかに連詩全体の流れを妨げたりギクシャクさせたりせずに、挙げ句(詩)まで導いてゆくかということ。発句(詩)の湧き水が、せせらぎになったり、湖に注ぎこんだり、時には滝と化して轟いたりしながら、最後には大河となって海へと流れ出して行く、その変化と成長の自然なリズムを把握すること。

これ、言うは易しですが、実際に行うのは難しい。みんなが自分の詩の出来上がりを待ち受けているプレッシャーの中で脂汗を垂らしていると、ついつい視界が狭くなり、数篇前に出てきた語彙を繰り返してしまったり、他人には通じない自分だけの暗喩に墜ちこんでみたりすることがしばしばです。

ところが自分の詩の欠陥は見えにくくても、他人のそれなら容易に見えるのですね。それを遠慮せずに指摘し合う。欠陥を欠陥だとみなす基準が自分だけのものではなく、全員に共有されているという実感があるから、それが出来るんだと思うんです。つまり個人的な好き嫌いを超えたある種の客観性に基づく公的な判断ですね。だから受け取る側もパーソナルにならず、みんなと一緒に自分を突き放してみることができる。

さて、僕が感動したのはそのさらに先のプロセスです。僕らは「ダメ」は出し合いますが、解決策とか助言の類は提供しません。あくまでもどこがどう「ダメ」なのかを指摘するだけです。それをどう変えるかは、当の詩人が再び孤軍奮闘して突破してゆくしかありません。その意味では、連詩は共同制作ではないのです。むしろもがき苦しむ一人を、残りの連衆が冷ややかに見守るという残酷無比な修行の場という方が近いでしょう。

そして少なくとも今回の連詩に関していえば、そのような修羅場に追い込まれた詩人は、必ず見事に自分ひとりの力で苦境を打開し、結果として詩ははっきりと目に見える形でよくなったのでした。その場合の詩とは、個別の詩篇であると同時に、連詩全体でもあります。いわば連衆全員の目の前で、作品が推敲され、生まれ変わってゆくのです。その過程における個と公、そして孤と場(=うたげ)との微妙なダイナミズム。

今、僕は「推敲」という言葉を使いましたが、実際この過程は一人で詩を書いている時の推敲と似ています。その場合でも、まず「ダメ出し」があるのです。つまり自分でもここがまずいということは分かる。けれどもそれをどう変えるかはまだ分からない。その解を得るためには時間が必要です。一旦忘れること、寝かすこと。その後に改めて新鮮な目と心で読み返すこと。そもそも自分で自分の欠陥部分に気づくためにも、時間は不可欠です。書いた直後はそれがベストだと思っているわけですから、何度読み返したって穴は見えない。時間の経過を挟むことによって、初めてそれが見えてくる。そのテキストを読んでいる自分の意識自体が、時間の侵食作用によって変容されてゆく訳で、ある意味他人の目で自分を見直すことが可能になるからです。

連詩では、推敲におけるこのような時間の役割が、空間的な「座」に変換されていると言えるかもしれません。「座」において、連衆の自我が重なり合うことによって、個を公に解放し、同時に公の視点を個の内部に取りこんでみせる。連詩が進んでゆくにつれて、連詩のテキストそのものが、我々一人ひとりの個を超えた、集合的な人格のように思えてくるのです。それでいて最後まで、自分の番が来た時は、そのような集合的人格とわが身ひとつで対峙しなければならない。なんともいえない不思議な感覚です。

連詩における個と公の関係を、一般社会の在り方にも敷衍できるのかどうか、僕にはよく分かりません。ただこういう「その中に個を組み込んだ公」、自分がその構成員のひとりだという強い自覚を伴う「公」の在り方というのは、日本ではあまり実感する機会がないように思えます。公は常に個の対立物として存在していて、外部から一方的に個に関わってくるという印象。これに対して連詩の場における「公」は、自分の「個」が組み込まれている。いわば分子と原子のような関係と言えるかもしれません。そしてそれは固定された関係ではなく、絶え間なく、一篇ごとに変化し、更新されてゆくものです。「引き返してはダメ」「常に、前へ」の掟の元に。自分が差し出す次の一篇次第で、その公はぶち壊しに終わってしまうかもしれないという緊張感。でもうまく行けば、自分も他の連衆も、まだ一度もみたことない世界が広がるかもしれないという期待。連詩の三日間、僕たちはその二つの間で翻弄され続けていたように思います。

そのような個と公の関係性を、森山さんはクィアと呼び、「行儀の悪い仕方で生き、しかし理想を求める」という風に定義してみせる。これは目からウロコだなあ。僕はクィアを漠然と支配的な公に対立する自由な個という風にしか捉えていなかったから。でもその構図に詩を放りこんでみると、たしかに他者の存在が浮かび上がってきますね。詩はたとえどんな孤独の底で書かれたとしても、本質的に他者に向かって語りかけ、他者の言葉に耳を済ましている。だとしたら詩を書くことで、僕たちは個と公の関係をその都度模索していると言えるかもしれません。これは定型と自由という命題に直接関わる話ですね。

それにしても「行儀の悪い」という言葉は耳に痛い。というのも連詩の間、僕は結構おしゃべりに興じていたんです。初日の雰囲気がちょっと硬いというか、静かすぎるように感じたので、夕食の席でそれを口にしたところ、谷川さんが「櫂のメンバーで連詩を始めた頃は、場所は蕎麦屋の二階で、最初から酒を飲んでいた」と証言。父親に連れられて何度かその場へ行ったことがあるという亜紀さんも「みんな楽しそうにワイワイガヤガヤしているのに、一人だけ苦しそうに黙りこくっている人がいるなあって子供心に思っていたけれど、今にして思えば、その一人が詩を書く順番だったわけね」と応じて、だったら我々ももう少し「がさつで粗暴に」宴を楽しんでもいいんじゃないかと思った次第。野村さんとエロ話に興じたり、成都で買ってきた嗅ぎタバコを試してみたり、亜紀さん覚さんから夫婦円満の秘訣を教えてもらったり。谷川さんは一人超然とイヤホンでヘンデルを聴いていたけれど、さぞや煩いやつだと呆れていらしたことでしょう。

今回の手紙はすっかり連詩の思い出話に終始してしまいました。「朗読の不可能性」、「声に出して読めない詩」についても、連詩の最中の無駄話のなかで、覚和歌子さんと話した覚えがあります。覚さんはまさに声の詩人、前世は詩を吟じながら旅を続ける巡遊伶人だったと信じている人ですからね。彼女は詩は本来的に身体の奥底から声とともに生まれてくるものだと思っているんじゃないかな。僕も以前はそんな風に思っていたけれど、最近はちょっと違うんです。詩には肉声を源とする歌的なものと、抽象的な思念や思想を文字に刻んだテキスト的なものの二つの潮流があるという風に感じています。そして前者は共同体から生まれ、共同体を育む機能を担う一方、後者は個=孤の精神に根ざしたものであると。あ、これもまた個と公の話になっていますね。続きはまたの機会に。

2017年11月20日 ミュンヘンにて

連詩の現場風景。(静岡新聞)

でもこれは、新聞の写真用に若干演出していますね。

実際にはこんな感じ。あれ、覚さんの姿が見えませんね。この時どっかで呻吟してたのかな。


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