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親愛なるミスタ崔:佐野洋子の手紙

二年前の夏、思い立って韓国と中国の詩人に呼びかけて「日中韓三ヶ国語連詩」なるものをやった。おりしも日本は戦後七十周年で、首相が談話を発表するにあたって諮問機関を作り、どこまで戦争責任を認めるかを「有識者」で協議したり、安保法制をめぐって毎週国会議事堂前に大勢のひとが集まっていた頃だった。政治家たちが寄ってたかってが厚化粧した言葉のメイク(談話であれ法案であれ)に励むなら、詩人だって黙っちゃおれぬと韓国と中国の詩人たちに呼びかけたのだ。日本人は僕である。でもそれだけだと心細いので宇宙人枠というのも作って、谷川俊太郎さんをお招きした。

その際谷川さんから韓国文学の翻訳者で、「信頼出来る人」として紹介されたのが吉川凪さんだった。吉川さんはもともと仏文専攻で、ニュース通信社に勤め、それから韓国語を習得して翻訳者になった人で、連詩の進行や日本で(8月15日に!)行った朗読発表会でも大変お世話になった。発表会のあとの懇親会の会場として、神保町に出来たばかりだという韓国ブックカフェ「チェッコリ」を紹介してくれたのも彼女だった。

そのチェッコリを運営しつつ、韓国文学の日本語訳を旺盛に出版している出版社Cuonの女社長が金承福さんで、なんと彼女は連詩に参加した韓国の詩人で大学教授でもある金恵順さんの教え子だった。ちょうど連詩を巻いている最中に谷川俊太郎をソウルのイベントに連れていったりもしていて、イッツ・ア・スモール・ワールド!なのだった。

さて先週久しぶりに日本に戻って吉川さんとも二年ぶりにお会いする機会があった。そのとき彼女がプレゼントしてくれたのが、『親愛なるミスタ崔』、佐野洋子が「40年近くにわたり、<ミスタ崔>と交わした57通の手紙。若き日の佐野洋子の素顔が浮かぶ、ベルリン・ミラノ・ソウル・東京を往復した未公開書簡」だった。版元はもちろんCuonである。

巻頭に谷川俊太郎の詩が載っている。「隣の国の男 ――崔禎鎬氏に――」というタイトルだ。これにはちょとドキッとする。この本は「ミスタ崔、あなたは私に無限の喜びと無限の哀しみを与えます」とある通り、佐野洋子が生涯をかけて愛した男(すなわちミスタ崔)に送り続けた書簡集だが、谷川俊太郎はその佐野洋子の元カレという関係なのだから。つまりここにはある種の三角関係があることになる。

でもいったん読み始めるとそんなことは吹っ飛んでしまう。そういう下世話な人間関係を超越したタマシイとタマシイとの切実な交流があるのだ。それは崇高だけれど決して抽象的ではなく、生身の男と女のセックスをまとっている。それでいてあくまでも手紙なのだ。僕はたちまち手紙のなかの佐野洋子に惚れ込んでしまった。深刻な愛の告白だとか別れ話だとかは一切なくて、どこまでもあっけらかんと溌剌たるユーモアに溢れているにも関わらず、なぜか泣いちゃうんだよなあ。

僕は佐野さんにお会いしたことが何度かある。最初は谷川さんと佐野さんが結婚したばかりのときで、場所はNYの谷川さんのお嬢さんのアパートだった。当時僕はシカゴに住んでいたのだけれど、谷川さんがNYに来るというので遊びに行ったのだった。するとそこに眼の大きな化粧っ気のない女の人がいて、自分からは何も言わず、この人はここで何をしているんだろう思っていると、谷川さんが「こちらは佐野洋子さんです」と紹介してくれた。それから近くのイタリアレストランで食事をした。娘さん夫婦やその友達や大勢のひとと一緒で、英語の苦手な佐野さんは居心地が悪そうだった。隣に座った僕に向かって「人間の人格って喋る言葉によって規定されるじゃない。だから私ここじゃ三歳の子供でしかないのよ」と言ったのが、妙に記憶に焼きついている。たしかその翌日は娘さんの運転で、やっぱりNYに住んでいた矢野顕子の家に遊びに行った気がするが、そこでの佐野さんの印象は残っていない。

そのあと日本に行くたびに阿佐ヶ谷の谷川さんちを訪れて、何度か佐野さんとも夕食を共にした。焼肉(あ、あれも韓国繋がりだった!)を食べながら僕が筒井康隆の短編で、自殺した息子の夢をどうしても見ることのできない母親を描いた「夢の検閲官」の話をすると、佐野さんが急に眼を輝かせたことを覚えている。その頃は佐野さんの息子の広瀬弦も一緒に暮らしていて、谷川さんの詩と合わせたカバの絵の本を出していた。母ー息子のテーマが好きなんだな、と僕は思った。

でもいつの間にか谷川さんの周囲から佐野さんの姿は消えていた。そしてまるでそれに合わせるかのように谷川さんは詩を発表しなくなった。久しぶりに会った彼は当然ひとりで、夏目漱石の小説における倫理性について書かれた新書本なんかを携えていて、僕はなんだかはっとさせられた。

佐野さんと会う前にこの『親愛なるミスタ崔』を読んでいたらなあ、と僕は思う。谷川さんそっちのけで佐野さんべったりだったかも。吉川さん、そして金承福社長、素晴らしい本をありがとう!

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