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芸術を楽しめないったら楽しめない。

私は芸術というものに心を動かされたことがないし、興味もない。

抽象的な芸術作品などが目の前に現れると、「で、何が言いたいわけ?」
とか思ってしまう。

今まで一番身近にいた芸術家は高校時代の同級生だった。彼は芸大に進学し、今は確か某美大でそれなりの地位にいる。

その彼が大学時代にギャラリーを借りて個展を開いたので、私は足を運んだ。
そこにあったのは、インスターレーションとでもいうのだろうか?
柱のような木材が何本か横たわっていて、私はどういう感想を伝えればよいのかひどく困惑した覚えがある。

そして彼は、その作品が出来上がるまでのデッサンみたいなものを取りためたスケッチブックを私に見せ、
「こうやってさ、形を探すんだ」
と解説してくれるのだが、私の頭の中では「????」

なんとか解釈しようという気持ちはあったのだが、歯が立たなかった。

「何で形を探すんだ?」とか「形探してどうなるの?」みたいな素朴な疑問が心の中を席巻する。

私は基本的に「芸術作品はすべて言葉に置き換えて説明できるのではないか?」と思っているフシがある。
(音楽はちょっと違うかもしれないが)

だから、なんだかわけのわからない造形物を目の前にすると、「こういう思わせぶりな物体を人の目の前にポンと提示するのではなく、言いたいこと、伝えたいことを言葉にしてくれよ!」などと思ってしまう。
オブジェとかほんといい迷惑です(笑)

作り手としては「いや言葉にできないから、こうなるんだよ」と言ってくるかもしれないけれど。


そんな私でもかつて美術館などに足を運んだことはある。
いくつもの絵画を見て歩いて、時折ちょっと気になる作品の前で立ち止まって、じっくり見たりもした。
けれど、それは何が気になったかって、作品のタイトルが風変りで、その絵のどこにタイトルとの関連性があるのだろう?と気になった程度のことである。

例えば「神のみぞ知る.....」などと題した森の風景を描いた絵の前で私は立ち止まって考えるのだ。
(あ、そんなタイトルの絵実在しませんよ。今思いついただけですから)
絵の出来はどうでもよろしい。私の心には何も響かないから。とにかく私が絵の前で立ち止まるのはタイトルと絵画そのもののギャップ、その程度の理由でしかない。

芸術家の方々からしたら、このnoteを読んで笑ってしまうかもしれない。
「この人芸術というものが何にもわかっていない」と。

そう言われても私は一向にかまわない。

今でこそ芸術とか、アートとか呼ばれているけれど、もしかしたら、それらはその時代時代で何らかの役割をもっていたのかもしれない。
例えば宗教をより多くの人に視覚的に理解してもらうためのの道具だったかもしれないし、はたまたある国を統治している権力者の偉大さを示し、国民を統制するための道具だったかもしれない。

それがいつの間にか「芸術のための芸術」に変化していったのではないか?

さて、ここまで書いて「芸術の起源は?」みたいな壮大なテーマにたどり着いたことに気が付き、そして時間はすでに23:16であり、明日以降の宿題にしよう。


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