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砂混じりの「東村山音頭」

小学校2年生の時、志村けんのせいで、ほぼ毎日廊下に立たされていた。


理由は、授業中に教室の前に出て行って、「東村山音頭」を踊っていたから。コブシをきかせた東村山音頭4丁目から始まり、一丁目のファンキーなシャウトまで、フルコーラスを歌いながら踊っていた。


大阪万博の年、プレ第2次ベビーブーマー世代として生まれた僕らは、小学校では教室が足りず、その年はグランドの片隅に建てられた仮設プレハブ教室に押し込められた。


床はザラ板で、グランドの砂が、常にザラザラと積もっていて、壁は鉄板が波打っている。トタン屋根に夏の日差しが照りつけると、窓を全開にしていても室内はサウナ状態。


担任の矢野先生だけは、「暑い暑い」と自分専用の小型扇風機を窓辺に据えて、ボーボーの胸毛を団扇で扇いでいた。


僕は授業中ジッとしておられず、歩き回ったり、ザラ板の床は適度に柔らかく、椅子ごと後頭部から転がったり、今でいうところの「多動症」そのものの小学生だった。


当時は、週明けドリフのギャグのまねをするのは、健全男子の大切な務めだった。ばかうけ。笑い声と手拍子のなかで、東村山音頭フルコーラス歌い終わると、矢野先生が、「廊下に立っとけ!」と怒鳴る。


でも、全然怖くない怒鳴り方。先生も、いかりや長介の役目をしっかり演じてくれていた。優しかった。許してくれる。だからこそ、あ・うんの呼吸で、僕の小学二年時代はファンキーなものになった。


プレハブ教室の廊下とは、つまりはグランド。砂埃が舞い上がるプレハブの軒下で僕は、バケツをもって立つ。


先生には教師として果たすべき職責があり、僕も8歳男子なりの重責を担っていた。


矢野先生は、男前だった。僕がいつも通っていた「みしま理容店」の表に大きく引き延ばされたポスターの男性モデルと瓜二つだった。


僕は、家庭訪問の時、友達と矢野先生を引っ張って、そのポスターの前に連れて行き「なぁ、先生にそっくりじゃろ」と教えてあげたが、先生は照れくさそうにニヤけて俯いてしまった。


あとから、その写真モデルが、「アランドロン」という有名なフランスの映画スターだと誰かから教えてもらった。今おもえば、似ていたのは「胸毛がボーボー」なところだけだったかもしれない。


その後、矢野先生は、遠く「角島」という島の小さな分校に赴任されたときいた。特牛の港から渡船で渡って単身赴任されたと大人たちがしゃべっていた。観光客向けの派手な橋ができるズーと前の話。


昨日から、志村けんの映像が流れるたびに、あの砂塵が舞うプレハブ教室のユル過ぎる日々がしきりに思いだされてならない。合掌。