「気にする」を行動にするようにしている ー 主観的な概念は結果の類似性からしか定義されていないのでは?

 工場の仕事では現状維持が至上の命題なので、その為に様々な項目を管理していて、僕はそのうちの自分の担当分を管理する責任がある。しかし、状態の変化に気付くというのはなかなか難しい。というより、それらの状態を「気にする」というのがなかなか難しい。どう頭を使えばいいのかよくわからない。
 イメージが沸かない場合は、水族館で何か変わった深海魚を何匹か飼っていて、そいつらの健康状態を自分が保障しないといけない と思ってほしい。

「気にする」をやるには

 それで、前回の上司とのミーティングでこれを尋ねてみた。すると、「どちらかというと気にした結果の行動を習慣化する方がいい」とのアドバイスを頂いた。
 その上司が具体的に行っていた方法は、担当する工程や機種ごとに管理が必要なパラメータをリストアップし、その値や図をスクショかコピーして1つのファイルにまとめ、それを毎日更新していく というものだ。「気に
」していれば、「確認する」。つまり、実際にそれを目にする。なので、目にしないと出来ない操作をルーチンとしてしまえば、「気にする」は包含出来るという作戦だと解釈している。
 僕は実際にこの方法を取り入れてから、工程の状態への感度がかなり上がったように感じている。また、見たものは一か所に集まっているのですぐに参照でき、効率も少し良くなった。

「気にしていることになる」とは

 社会活動では結果が全てなので、例えば「気にしておいて」という指示には、何かがあったときに適切に処置することでしか応えることが出来ない。主観的に「気に」したところでそれは1円にもならない心労で、その結果適切な処置が出来なかったとすればそれは「気にしていた」ことにはならない。むしろ何も気にせずに完備された確認ルーチンをまわす方がよっぽど「気にしていることに」なる確率が高い。

気にした結果の行動リストを完備するには

 そこで問題なのが、どういった項目をそのルーチンに組み込むかだ。正直、これがはっきりわかっていれば別に迷ったりしない。僕の場合は先輩に教えてもらったりして暫定のリストを作成した。この問題はおそらく各状況によって全く異なるもので、一貫した方針は立てられないと考えている。
 強いて言うなら、取りうるパラメータをすべて集めてから実験計画法的に省いていくのが取りこぼしなさそうだとは思っているが、実験計画法も主観的な原理原則に基づくと思うので根本的な話にはなっていない。
 また、必要に応じてリストの再編も必要になるが、あまり頻繁に入れ替えると経時的な変化が見えにくくもなる。このあたりも各状況でのセンスなのだろうと思う。

「結果の行動を行う」という作戦について

 少し話を戻す。
 上司のこのアプローチは、よく幸福論でいわれている「寝る前にその日の良かったことを3つ書く」と同種だなと思った。抽象していえば、「ある心理的な働きを起こすために、その働きの結果生じる行動を行う」ということだ。
 幸福論のこの例では、「人間の脳は行動をすることで自分がそう感じていると勘違いする」というような説明がなされている。しかし、「人間の行動は自分が意識的に行動を決定する数秒前に無意識下で決定している」という話もあるので矛盾を感じないわけではない。このあたりは結局ブラックボックスだとは思う。

主観的な概念は結果の集合である説

 むしろ僕が思ったのは以下のようなことだ。幸福という言葉が家族的類似性による概念であることは『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』で述べられている。そう考えると、もしかしたら「気にする」も、本来はそれに起因すると思われる行動の類似性によってしか定義されていないのではないか?それが、一般的にその結果と結びつく感覚を指すかのように用いられているだけなのではないか?そしてこれは、主観的尺度である概念全体に共通するのではないか?AIに意思があるか(自我ではなく)のような議論の逆をやっている気がする。
 いずれにしても、人に何かを求める文脈での「気にしておいて」とか「幸せになって」というのはなかなか抽象度が高い。この抽象度の高さは結局先のリストの多様性に由来していると思うので、結局はセンスなのかもしれない。

まとめ

 以上、「気にする」を行動にすることについて、実用的にどうすれば「気に」出来るかの考えと、屁理屈としての心境の定義についての考えだ。
 ともかく、日常生活には「気に」しなければならないことが沢山あり、僕はそれらが悉く苦手なので、先の助言から得られるものはとても多い。少しづつ日常に落とし込んでいく所存である。


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