主観的な教訓にも客観的な妥当性が必要なのではという話

 ここ数日、僕は先輩の手伝いで不良品の対策をおこなっていた。今日はその中で得られた経験と教訓に対して、考えた事を書く。

経緯

 部署の先輩が取り組んでいたクレームの対応(品質改善)で人員が必要となり、僕は現物確認係として手伝っていた。当初根本原因の検討がつかなかったため、暫定対策をしつつ検査で取り除くという方向性だったが、検査方法を確立するための現物確認を進める中で奇跡的に根本原因が判明し、非常にきれいな形で解決することが出来た(工程運用への反映等は残件だが)。尚、良い感じに表現しているが自分は特に何の貢献もしていない。

  それで、製造業でいわれる三現主義というのは本当なんだな、と感じた。感じた訳だが、よく考えるとこの感想の持ち方は少し危険であると思った。

僕の経験は「正しくない」と思う

  僕は確認の数量を稼ぐ担当だったから、現場でとにかく物を見て数を稼ぐことが根本改善につながったという経験となっている。
 しかし実際は、現物の数量が必要になるまでに長い道のりがあった。そもそも不良品を探すのも原因特定の為ではなく、作製後の検査でどの程度発見できるかを試すために多数の不良品が必要となっていただけだったのだ。原因の特定はかなり本格的な調査の末に諦めモードとなっていた。そして、先輩が最終的に根本原因に気付けたのも、かなり間接的ではあるがそれまでの調査の中で似た不良モードを扱っていたからだった。

 なので、僕の経験は、僕の経験であるという意味では正しいが、それがもたらす教訓の客観的妥当性という意味ではあまり正しくない。というより、経験は客観的妥当性を必要としない(むしろ、人と違う解釈を与えることが喜ばれる場合もある)が、教訓はそうではないのだ。

 これは事実と意見の峻別に対応していると思う。経験は意見であっていい。なぜならその結果を当人の経験以外が被らないからだ。それに対して、教訓は主観的なものであっても、それに従って自分が行動することになることによって間接的に客観的事実となる。それは利害関係を共にする人間がいる場合、その人のそれ以降の行動は他者にとっても現実となる。

 逆に言えば、人と同じ経験を見出せるように行動する努力をすることにはメリットがあるようにも思う。

オチ

 以上、経験から安易に教訓を得ることの危険性についての考えである。回避するには、ものすごくメタ的なオチ(結論)ではあるが、経験の回数を稼ぐのが効果的なのだろうと思う。

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