『虐殺器官』『たゆたう』

雑記です。

最近読んだ本やこれから読む予定の本、その他諸々のことを書いていきます。

スマホのメモ帳で事足りるのですが、それだとどうしても適当になってしまいます。だって自分の目にしか映らないものだから。私は部屋が汚いタイプの人間なのです。だからきっと、そうして書かれたものは未来の自分にとって有益な物にはならないでしょう。今の自分に理解できても、未来の自分に理解できるかはわかりませんから。人は変わるものだと知っています。

故に、人目につく場所に書き記そうと思いました。

誰かに読まれることがなくても、人目につく場所に書くという行動自体に意味があるのです。自ずとちゃんとした文章で書こうと思えるから。

というわけで、書きます。

これは雑記ですので、作品の感想などを書いていくわけではありません。私はこれらの作品と出会い、どう思ったのかを未来の自分に向けて書き記すだけです。


つい先日、伊藤計劃さんの『虐殺器官』を読み終えました。もう15回目ぐらいです。

SFというジャンルは、私にとって馴染み深いものではありませんでした。十年ほど前にこの作品に出逢う前はまったく読んでこなかったし、現時点でも、この作品以外にSF作品はほとんど読みません。

『虐殺器官』は特別なのです。

「ことば」とは、「思考」とは、「わたし」とは何なのか。そんな文学的な題材を扱っていながらも、誰も突き放すことなく読み進められる文体。そして殴りつけるようなストーリー。

異質です。作中で、主人公がある登場人物を『ガタガタと揺れる車両のなかで、この男だけが奇妙に静止しているように思える』と憎悪する場面がありますが、私はこの作品そのものがそう思えます。揺れ続く世界の中で、『虐殺器官』だけが静止してこちらを見ているように思える。

間違いなく、私がこれまで読んできた小説の中で特別な位置に存在する作品のひとつです。一言で表すのなら、「乾燥したグロテスク」。人によって抱く感情は違うでしょうが、心に残る作品であることは間違いありません。

こういう作品が書きたいと、常々思います。

安易に消費されることを拒み、読んでいる時、そして読み終わった後もしばらく読者の脳に留まり、人生を狂わすに至るまで影響を与えるような強烈な作品。私は一度『虐殺器官』に殺されました。価値観が変わるというのはそういうことでしょう。

この本はもう読み終わったし、次はあれを読もう。

そうやって、一時的な関心に使われて放置され、現実の速度に置いていかれた数多の小説たち。その中で、それを許さずに読者の心を惹きつけ続ける作品。

私にとってはその作品の一つが、『虐殺器官』です。

この作品に出逢えた幸福に、ただただ感謝するばかりです。


そのさらに少し前、あるエッセイを読みました。長濱ねるの『たゆたう』です。

私は欅坂46(改名して現在は櫻坂46)というアイドルグループが好きで、長濱ねるさんはそのグループの元メンバーでした。ただその中で特別好きだったメンバーというわけでもなく、卒業発表の時は惜しいなと思いながらも、特に思い入れはありませんでした。

そんな彼女が、若干の期間を開けて芸能活動を再開したのが数年前。思い入れは無くともまたテレビの中で彼女の活躍を見れるのはグループのファンとしてはやはり嬉しく、長濱さんが出演しているドラマやラジオを見聴きしていました。

そうしていく内に、私は長濱さんが紡ぐ言葉や言動から見えてくる価値観に、惹かれるようになりました。

そんな中で、昨年の秋ごろに長濱さんがエッセイを出版されました。もちろんすぐに買って、大切に読みました。

私はエッセイが好きです。好きな著名人がエッセイを書くと、ほとんど決まって読むようにしています。小説と違い、そこに書かれているのは筆者の記録や思いです。その人の心の一端を知ることができます。価値観の輪郭に触れることができます。それはやはり、その人のファンからしたらとても貴重なことでしょう。

そんな長濱さんのエッセイを、もう一度読み返してみました。去年の秋に一度読んだ後、少し経ったらもう一回読んでみようと思っていたのです。

大切に読んで、そして読み終えました。共感できる部分もあり、共感できない部分もありました。それは当然のことです。当然のことですが、少し安心しました。

私は、盲目になっていなかったのです。

どれだけ好きな人でも、その人の価値観全てに共感できるなんてことはありません。あったとすれば、星の輝きのような奇跡か、その人を盲信しているかのどちらかです。そして割合的には後者の方が圧倒的に多いです。だって前者は奇跡ですから。そうそうあり得ません。

盲信とは恐ろしいことです。あの人がこう言っているのだから正しい、あの人の言動はいつだって確かなものだ。そうやって決めつける心に支配されること。最も恐ろしいのは、自分の心を捨てている自覚が無いことです。

だから私は、エッセイが好きです。共感できない部分を見つけると、むしろ嬉しくなったりもします。盲信していないと自覚できるし、知見にもなるからです。それは共感し続けることよりも、得難い経験だと言えるでしょう。

私は安心して、これからも長濱ねるさんを応援していけます。


次のnoteの更新は未定です。予定を決めてしまうとそれに沿った行動に制限されてしまい、不快だからです。だから決めていません。また書きたくなった書きます。

では。




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