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表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬


日本には芸人と呼ばれる仕事がある。言葉の力で戦う仕事。僕はけっこうお笑いが好きだ。お笑い好きと言われる人ほど好きではないけれど、人並みに好きだ。それは大衆娯楽であり、憧れでもある。高校のころに本当に面白くないトリオ漫才をやったこともあるし、政治の授業では教壇に出ていって安倍晋三のモノマネをしたり(そっちは結構ウケた)それくらいにお笑いは好き。


時は流れる。僕は人前でふざけることはなくなり、トリオのメンバーと連絡することも減った。政治への関心は以前ほどなく、安倍晋三は撃たれて死んだ。







ある晩飯にて、ピンクの話題になった。エロスティックな意味でなく、色の話。そしてなぜか林家ペー・パー子とオードリー春日のピンクまみれ3人がメシを食いにいったらどんな話をするか、という訳のわからないことでちょっと盛り上がった。


ふとオードリー若林の書いた著書を思い出した。タイトルは『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』。


高校の頃、図書室に並ぶ本の中から何気なく彼の旅行記を手に取って読んだ。言葉の匠が紡ぐ文章は「芸人の本でしょ〜」なんて馬鹿にできるものではなく。彼の捻くれた態度と社会システムへの鋭い目線は、痛快で切実で面白かった。


ずっと競争し続けなければいけない資本社会。新自由主義と言われるシステムによってできた社会。持つものも持たざるものも、先のない競争のなか冷たい視線を受けている、そんな社会。これに嫌気がさして、若林はキューバへ飛んだ。まったくシステムの異なる、社会主義国の国へ旅立った芸人。




なんとなくこの社会に苛立っていた、時代が間違えていたら学生運動のリーダーになったいたであろう僕。どこか共鳴したのだろう。いまだにタイトルを覚えていたのだから(うろ覚えだったけど)。そういや昔僕の一番好きな政治家はホセ・ムヒカだったな。とにかく、おちゃらけた生活に隠して底にはシステムへの怒りがずっとあった。


まさかその違和感を突き止めるのは政治学ではないなんて、当時の僕には分からなかった(だから政治を学ぼうとしてた)。さらに、まさか僕がその後もずっと資本主義が、つまりは猫じゃらしよりカネを評価するような社会が嫌いで、社会学をやることになるとは思いもしなかった。つまり、バイブルといえばあまりに気持ち悪いが(というか明らかに言い過ぎ)、意識的にか無意識的にか今の「私・存在」を形作る1コマにこの『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』が位置するのは疑いようがない(タイトル忘れてたけど)。




畠をしたり、旅をしたり、そんな僕の根っこは「こんなブルシット世界」の中に居場所を見つけたくて、それだけが肥料となっている、そんな気がしている。このfukuという植物には花は咲かないかもしれないけれど、つくしんぼくらい出てくれたらそれでいいかな、という小さな願い。とか言っちゃって。トゥース。



画像はトーキョーでもハバナでもなく、ベトナム・ホーチミンの野犬。

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