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都市を語ることの困難さは、記憶の城が強固に駆け回るから。

 スティーブンキング曰く、ズバリ小説はテレパシーらしい。オカルトな話をするならものや都市はサイコメトリー可能だろうか?

 文学サークル「お茶代」6月の課題 主催者・脱輪のnoteを読んで感想を書こう! より「わたしたちはみんな都市のチェス盤に置かれたポーン(歩兵)、冷たい指先に首根っこをつかまれ滑ってゆく」を読んだ感想です。

脱輪さんの文はこちら

 非常に面白い都市体験のサンプルとして拝読しました。歩くことで体験する束の間の開放感と逃れられない盤面としての都市感覚。経験は外部記憶されるという表現にハッとさせられました。考えてみれば記憶は、ある特定の敷地と立地する構築物との関係と共に保存されている、場所性が逃れがたくつきまとってきているな~と。駒としての自分自身のみを取り出してしまうことができなくて、盤とひもづけて保存されていることに気づかされます。
 そしてある疑念がわいてきます。本当に記憶は脳の外部にも保存されているのではないかと。だとすると都市について語ることは、都市「体験」について語ることはとても困難になります。1つの要素に決められた機能があるようなモダンな世界ならどんなに楽だったでしょう。都市の建築は個人によって感じる印象が違うのです。では都市は個々人の体験によりけりであり、言述不可能かというとそうでもありません。経験と経験の総和が都市を形作っているからです。つまり読み取られる共通項があります。歴史的な建物や公共空間は記憶や経験を蓄積していて、その場所特有の意味をもち得ます。特に京都や東京はそれが病的に顕れます。平安京以来のグリッドとして、または皇居を環状に避ける迂廻路として。このままマクロに分析を進めれば都市論となるでしょう。感想に戻ります。

都市は記憶のプロジェクションマッピングだ。

あの子と行った映画館、あの人と見た景色、汚れた路地の片すみにあらわれた、震える肩のシルエット。

場に足を踏み入れるたび、映画が始まる。今しがた夢から目覚めたように、素知らぬ顔で再上映して。

わたしたちはみんな都市のチェス盤に置かれたポーン(歩兵)、冷たい指先に首根っこをつかまれ滑ってゆく

 人生の進行を忘却して、町を歩いて事実に当たり、記憶を掘り返してしまう瞬間。それはものでも可能なのか?都市のミクロコスモスともとれるファッション。「あの日のからだ」「白紙のままの地図」というかつて存在していたもの、未だ到達していないものという、ベクトルは違えど今存在しないものが記憶。それは予感とか余韻とも言い換えられる。都市は大きな服であり、服は小さな都市とも言えるでしょう。
 都市にローカルな個性があるとしても都市は、都市の変化を促すものによって変動します。変動しないものは病的に残り、京都や東京の例のように周囲の変化に影響を及ぼします。個人の記憶と現実と、判別のつかない曖昧なマコンドのような町が都市であり、だから都市について語るのは困難なのです。都市体験は個人の体験によるものであり、都市論はいつも、当てはまる所もあり、当てはまらない所もあるのです。僕は日々都市や建築について考えていますが、学術都市とか、単純な図式に当てはめがちです。記憶の外部性という考え方は僕の逃げを許さない城として強固に駆け回ります。都市を語ることは困難だと。

このように複雑な都市の構造が、一つの議論のなかから、それも、その参照語彙が至って断片的であるようなそれのなかから、浮かび上がってくる。おそらくそれは、ちょうど個々の人間の生活や運命を支配する法則と同じものなのだ。どの伝記にも興味を惹くに充分な話題が詰まっているものであり、およそ伝記というものがすべて生と死との間のことに限定されているにもかかわらず、そうなのだ。確かに、都市の建築は、このすぐれて人間的事象は、こうした伝記の具体的記号なのだ。意味や感情を超えたところで、それにより我々は都市を知るのだ

アルドロッシ 都市の建築

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