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6日目 三島宿~蒲原宿

現代人でも歩こうと思えば歩けるもんだね。もう静岡県だ。とりあえず三島宿の紹介から始めよう。

⑪三島宿(静岡県三島市)

11.三島

三島市は静岡県東部にあり、三嶋大社の鳥居前町。富士山の麓にあり、湧き水がよく出るとのことで、鰻が名物らしい。またここを拠点に東京都内へ新幹線通勤・通学をするものもそれなりにいる。そういえば大学の語学のクラスに三島から通いの人がいたわ。確か1時間足らずで東京駅に着いたと思う。5日かけた道のりが今や1時間かからないのか。

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三島駅の案内板。お、お前は100系じゃないか…!東海道新幹線から引退してもう20年近く経つのに…!

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300系もいた。こちらも東海道新幹線から引退して10年くらい経っているはず。いつからこの案内板変えてないんだろうか。

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今日もひたすら旧東海道を進む。国道1号線とはしばしお別れ。道幅が狭く、当時の雰囲気が少しは残っているように感じる。

この先で同じく旧東海道を歩いているらしき人を一人追い抜いた。ガイドブック読みながら歩くのは危ないよ!そこに常夜灯スルーあるけどしていいの!?

ちなみに今回の旅のルートはガイドブックを参考にGoogle Mapのマイマップで地図を作り、それを適宜スマホで確認しながら進んでいる。GPSって偉大だね。マイマップの打ち込み作業とても面倒だけど、その過程でなんとなく道順を覚えるから悪くない。

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ほんの10分ちょっとで清水町に突入。清水港とかエスパルスのある清水(現静岡市清水区)とは全くの別物。
清水町は「町」を「ちょう」と読むのか。「まち」か「ちょう」かは地域によって異なり、東日本は「まち」が優勢、西日本は「ちょう」が優勢だとか。

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いつの間にか東京があんなに遠くに。都内在住なので普段は「静岡まで○○○km」という表記を目にするため、いつもと逆の光景を目にして少し感激。

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松並木。旧街道に松は必須だ。

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黄瀬川橋から富士山を望むつもりが見えない。童謡富士山を頭の中でリピートしながら歩いていたというのに!この後も富士山を全く拝むことができなかった。今日の行程が一番堪能できると思っていたのに。

あたまを雲の 上に出し
四方の山を 見おろして
かみなりさまを 下に聞く
富士は日本一の山

奥の橋、見覚えがあると思ったら7月の豪雨でV字崩落した橋だ。あんなデカイ橋でも耐えられないんだから水の力ってすごいわ。そしてさっさと復旧させた土木技術もすごいわ。

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一里塚の跡。いつの間にか沼津市に入っており、三島宿から1時間ほどで沼津宿に到着。近い。

⑫沼津宿(静岡県沼津市)

12.沼津

三島市までは律令国における伊豆国だったが、沼津市からは駿河国。静岡県にありがちな富士山が見え、海も近く、かつ温暖な気候を活かして別荘地としての役割を担った。大正天皇の静養のため沼津御用邸もかつて存在した。近年はアニメの聖地となって聖地巡礼の対象ともなっているようで、市内にはキャラクターのポスターを貼ったお店もチラホラ。

すぐ近くを流れる狩野川って狩野川台風の狩野川だよな。令和元年の台風19号が接近した際にやたら名前が出てたよね。

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沼津市はそれなりに大きい街で発展しているため、発展の過程で旧宿場の雰囲気をそのまま残すものは消えてしまったように感じる。第二次世界大戦中に空襲もあったようなので、そのときに燃えてしまった可能性もあるな。

この時点でまだ9時前ということもあり、店も開いていないため、さっさと通り抜けていった。

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県道163号線を進む。ご丁寧に旧東海道の表記もでかでかと。交通量も国道1号線と比較すると少なく、また整備もおざなりでひび割れや穴が目立つ。しかし両側には住家が途切れることなく立ち並ぶことから、生活には必要不可欠な道路なのであろう。

住家は吉原宿の手前までずーっと続く。静岡県はどこの自治体もそれなりに発展しており、どの自治体にも人がそれなりにいる。歩きながらそのことをふと思い出したのだった。

ちなみに道を1本海側に行くと、千本街道(県道380号線)という田子の浦まで続く見事な松林とともに旅することができるが、今回は旧道にこだわった。それに千本街道は交通量も多いため避けたかった。

ちょいちょい左に見える松林を眺めつつ、東海道線の踏切を渡り、難なく原宿に到着。

⑬原宿(静岡県沼津市)

13.原

渋谷区原宿ではない。原宿は寒村の宿場町に付けられがちな名前だったらしい。なにもない原っぱにある宿場、ということだろうか。宿場は現在の静岡県沼津市の西側に位置する。もともとは現在よりも海側にあったが、高波の被害を避けるために内陸側に移設。すぐ近くに沼津があったため、宿場の規模としてはそれほど大きくなかったようだ。

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なんか雰囲気のあるお寺があるぞ。松蔭寺とな。

調べてみると臨済宗中興の祖、白隠慧鶴が住職を務めていたお寺だそうで。禅宗は鎌倉時代には大流行したが、時代とともに人気が薄れ、江戸時代には時代遅れのものとなっていたのだそうで。その現状を打破しようと修業を重ね、諸国を遊方して禅を復活させたのだそうだ。

白隠禅師が本気を出したあとの臨済宗の復興具合は凄まじいもので、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謳われたらしい。富士山と白隠を褒めるようで駿河をディスる高等テクニックだよねこれ。

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JR原駅。規模は小さいが外観は宿場を意識しているのだろう。

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富士に入った。市章も富士山だ!このあたりで東海道の旅人を1人追い抜く。

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マンホールにも富士山だ!

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とにかく富士山推しだ!でも今日は雲がかかっていて全く見えない。山部赤人のあの歌の情景を楽しみたかったのに!

田子の浦ゆ 打ち出てて見れば 真白にぞ
富士の高嶺に 雪は降りける

よく考えたらまだ9月だし富士山頂に雪ないわ。

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富士市は水資源が豊富なことを活かして製紙業が盛んである。赤と白の煙突はシンボル的存在。新幹線からもよく見えるね。ペーパーレス化が進むとここらの工場の規模も縮小していんだろうなぁ。

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東海道を西進すると富士山は進行方向右側に見えるものだが、吉原宿の手前では道が折れ曲がって北東向きになるため、一時的に富士山が左側に見える。これが左富士。でも今日は雲がかかっていて全く見えない。一番富士山を楽しめる区間で富士山が見えないというがっかり感。

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突如現れる平家の文字。いきなり鎌倉時代前に飛んだ。平家にまつわる話ってこの辺であったっけ?富士川の戦いじゃないのか?富士川はもう少し西にあるはずだが。

富士川の戦い
1180年11月、駿河国富士川で源頼朝、武田信義と平維盛が戦った合戦。合戦とはいうが、次のような逸話がある。源氏側が富士川を馬で渡る際に水鳥が反応して一斉に飛び立った。その羽音を平氏側は源氏の奇襲と勘違いして混乱に陥って西へと退き、源氏は戦わずして勝ったという。※諸説あり

案内板によると「源平の雌雄を決めるこの富士川の合戦が行われたのは、この辺りといわれ、『平家越』と呼ばれています。」だとさ。うーんよくわからん。富士川はどうしたんだ。

左富士、平家越橋を過ぎると吉原宿に到着。

⑭吉原宿(静岡県富士市)

14.吉原

浮世絵にも描かれている左富士。見たかったなぁ…。

これまでの宿場はJRの駅からそう遠くない場所に位置することが多かったが、吉原に関してはJR吉原駅から少し離れている。最寄りはJRではなく岳南電車吉原本町駅。調べてみると、JR吉原駅はもともと鈴川駅という名前だったのを改称したそうだ。また今では街の中心はJR富士駅周辺へと移ったようである。

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宿場付近。建物はすべて新しいが、道の両端には当時もこのように宿屋が立ち並んでいたのだろう。

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次の蒲原宿までは3里ほどあるので間の宿もあった。このあたりで東海道の旅人をまた1人追い抜く。今日は3人追い抜いた。

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そうこうしているうちに富士川橋を渡る。橋は大正13年に完成。先述の富士川の戦いがあったとされている場所。鉄道唱歌にも歌われていることからも、源平の合戦ってのは明治期までは歴史的重要事項だったことが推測される。今でも重要なことには違いないけどそんなに深く触れないよね。

鳥の羽音に驚きし
平家の話は昔にて
今は滊車行く富士川を
下るは身延のかえり船

鉄道が開通するまでは物資の大量輸送は船が担っていた。しかし海のない内陸県はその点不利だ。甲州(山梨県)や信州(長野県)は内陸のため、またどこへ行くにも山を越える必要があるため、荷物の輸送には大変な労力が必要であった。そこで甲州から駿州を下り駿河湾へと注ぐ富士川に着目。富士川を下って駿河湾へ入り、海路から輸送するルートを企画。江戸幕府は角倉了以すみのくらりょういらに開削を命じて富士川舟運が発達したのだ。角倉了以なつかしい。

道のりは70kmほどで、船であれば半日で下ることができたそうだ。しかし問題は帰りである。下ってきた船人はどうやって甲州まで帰ったかというと、交通手段の少ない江戸時代である、当然歩きで帰ったのだ。しかも船を引っ張りながら。歌は船を引っ張りながら甲州へと帰る船人を表したものと思われる。帰りは4~5日かかった。

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対岸から。やはり富士山は見えない。

またもや余談だが富士川を境に電気の周波数が変わる。東側は50ヘルツ、西側は60ヘルツと、電気を軸に考えるとここが東日本と西日本の境界。

富士川を越え、少し坂を登ると間の宿岩淵に到着。

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道幅といい、常夜灯といい、一里塚といい、江戸時代からそのままと思われるものがかなり多く見られる。岩淵を抜けるまでに常夜灯は5箇所は見かけたと思う。文政、嘉永、安政など聞き覚えのある元号が彫ってあった。石って長持ちするんだなぁ。

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一里塚跡。右側は植え直したらしいが左側はおそらく江戸時代からのもの。植え直しであろうと道の両側にしっかりと植樹されているのは、今回の旅で初めて見た気がする。レアだ。しかしこの道幅でほぼ90°のカーブは危ない。教習所のコースみたいだな。

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その後は坂を登り、現代の東海道たる東名高速を下に見つつ進むと、

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静岡市に入った。

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おお~!駿河湾が見える!間の宿岩淵を過ぎ、坂道を下るとそこは蒲原宿。

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蒲原宿の入り口、東木戸と常夜灯。

⑮蒲原宿(静岡県静岡市清水区)

15.蒲原

温暖なはずの静岡で降雪を描いている様が名画といわれる所以らしい。

いつの間にか静岡市に入った。横浜市のデカさに辟易としていた私ではあるが、静岡市の方がデカい。横浜市には3つの宿場があったのに対し、静岡市には6つある。しかも4つが清水区。これは長い戦いになりそうだ。

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旅籠跡。しっかり残ってるんだねー。

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国登録文化財「旧五十嵐歯科医院」。外観は洋風で内観は和風という和洋折衷スタイル。

正直蒲原宿見くびってた。ごめんね。繰り返しになるが、岩淵から蒲原にかけては本当に江戸時代の雰囲気をよく残してあるように感じる。道幅、常夜灯、一里塚、本陣跡、家屋などなど。問屋場や高札場はさすがに残っていなかったが。右手には山、左手には駿河湾と景色もなんだか良い。日本橋から数えて15番目の宿場であるが、現時点で蒲原宿が雰囲気ナンバーワン。

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蒲原宿の最寄りはJR新蒲原駅。宿場の最寄りなのに「新」なんだな。鉄道開通時に鉄道を忌避して別のところに蒲原駅を設けて、その後やっぱり駅が欲しいってなったんだと予想。

と思ったら違うみたい。先程の岩淵に岩淵駅(現:富士川駅)が設けられ、その後蒲原でも誘致運動を行ったが岩淵駅からの距離が近いこと、また由比でも駅設置の請願があり、駅間の距離等を考慮して蒲原宿と由比宿の間に蒲原駅を設けたらしい。結局その後蒲原宿に新蒲原駅、由比宿に由比駅(2kmほど離れているが)が設けられた。

時刻は17時に差し掛かっているため、本日はここまで。蒲原宿付近にちょうど良いホテルがなかったので、東海道線で富士駅まで戻ってそこに宿泊。大浴場付きのホテルは最高だわ…。疲れが飛んでいく感覚になるね。洗濯機の料金100円で乾燥機は無料なことに感動した。

明日は蒲原宿からスタート。順調に行けば府中まではいけるかな~。本日の歩行距離は43kmであった。

以上

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