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10日目 金谷宿~見附宿

本日も晴れ、夏日の予報である。10月に入ってもまだ夏日か…。しかし一度歩くのをやめたらそのままズルズルリタイヤしそうなので、今週も張り切って歩く。

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金谷宿の最寄りである金谷駅周辺にはコンビニ等もないため、行きの新幹線の中で朝食を摂る。長距離歩くには朝からしっかり食べることが大切なのだ。崎陽軒のシウマイ弁当。シウマイ弁当の核はシウマイではなく筍の煮物なのだ。とても好き。ちなみに杏はいちばん最初に食べてなかったことにする派です。

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新幹線から見た富士山。ここを黙々と歩いたんだよなぁ。

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JR金谷駅を出ると大井川鉄道の金谷駅。トーマス号が名物。まだ8時前だが大井川鉄道目当ての観光客がちらほら。

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さて、坂を登る。朝から坂はちときつい。

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単純に坂が続くかと思ったら石畳が現れやがった。これはきつい。案内板を見ると、平成3年には30mほどを残しそれ以外は舗装されていたが、町民の協力を得て実施された「平成の道普請」で延長430mが復元されたという。今東海道の石畳で往時を偲ぶことができるのは、箱根峠とこの金谷坂だけらしい。そう聞くと貴重なように思えるけど歩くにはつらい。

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復元した際にすごく丁寧に、綺麗に仕上げたんだろう。丸みを帯びた形状の似た石が並び、見た目がとてもよろしいが、案外歩きにくい。角がある石の方が足に引っかかりやすくて登るのが楽な気がする。その点においては箱根峠のほうが楽。

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比較用の箱根峠の石畳。こちらのほうが角張った石が多い。

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まだ朝なのに石畳のおかげで汗だくである。登り終えるとおなじみ明治天皇の休憩地点。

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そして広がる茶畑。静岡の名産だ。

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せっかく登ったのにまた下る。菊川坂といって江戸時代後期に整備されたらしい。菊川の名が入っているが自治体としては島田市。

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坂の途中から水が滲み出ていた。湧き水?

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突如現れるサワガニ。ここ石畳だよな?河原じゃないよな?他に水生生物は見当たらなかったが、いったいこいつはどこからやって来たのか。近くに隠れた水場でもあるのかね。

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菊川坂を下ると間の宿菊川に到着。古い建物等はないが、このような案内がシャッター等に描かれていた。おそらく自治体も絡んではいるが、このあたりの集落の方もこうした取り組みに協力的なのだろう。

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これとか自治体絡みでなくて個人でやってるんじゃないの?すごいことだ。

間の宿では旅人の宿泊はできず、また尾頭など本格的な料理を出すこともできず、基本的には休憩地点としての役割を担うのみであった。そこでこの地で生まれた名物が米に大根の葉を混ぜて炊き込んだ飯と味噌田楽を合わせた料理、菜飯田楽で、金谷の坂を登りきった旅人に大人気だったそうだ。今はこの地に菜飯田楽を味わえる場所はなさそうだが、味噌どころ愛知県に入ると名店があるらしい。

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海抜106.9mの表記を見て自分が台地の上にいることを実感。原発からの距離が記載されているのも、この地ならでは。

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道路工事をしていた。国道473号のバイパスらしい。作りかけの道路ってなんかいいよね。

さて、金谷宿を出ての石畳にもひいひい言っていたが、ここからが本日の主役、小夜の中山である。古くから箱根、鈴鹿と並んで東海道の難所として知られる場所。標高は250mほどだが、とにかく急な坂道が難所たるゆえんらしい。

またこの地には夜泣石伝説がある。その昔、この峠を歩いていた妊婦が山賊に襲われて殺されてしまった。お腹の切り口から生まれた赤ん坊を助けるため、母親の魂は傍らの石に乗り移って泣き続けた。鳴き声に気づいたお寺のお坊さんに拾われた赤ん坊は水飴で育てられ、後に母の仇を討ったと言われている。この伝説にちなんで生まれた子育飴は今でも当地の名物。

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見よこの坂道を。金谷の石畳よりも遥かにきつい。体感では今回の旅でいちばんきつい。箱根では長い階段の途中で立ち止まることはあっても、坂で立ち止まるということはなかった。しかしこの坂を登りきるには二度立ち止まって息を整える必要があった。なんじゃこりゃ。

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茶畑だぁ~!やはりその地域の名物を見ると気分も上がる。肩で息をするほどの急坂を越えると見えてくるのはのどかな風景。この対比がなんかいいね。

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と思ったら急坂は二段構えだった。これまでの人生でいちばんの急坂は、出身中学の裏門の坂だと信じてやまなかったが、本日中山峠がトップに躍り出た。それくらいの衝撃である。写真や動画では角度がいまいち伝わりにくいのが残念だが、体力に自身のある方はぜひ挑戦して欲しい。

小夜の中山

地理院地図から引っ張ってきた小夜の中山の断面図。例によって完全なものではないが、峠の形状はなんとなくわかるだろう。大雑把に計算すると20~25%の急勾配。体感で道中いちばんつらい坂と書いたが、こうみると体感もあながち間違ってはいないと感じる。距離はさほど長くないものの、まっすぐ一気に登っていくのが本当にきつい。遠目に見ると坂が壁のように見えるが、20%の勾配でも角度に直すと11.3°で緩やかに感じる。数学の問題ではほとんど目にすることなかったくらいの鋭角さ。でも実際登るとめちゃくちゃきつい。角度マジックすげえ。
ちなみに箱根の急勾配はだいたい10~15%で、20%に達するような箇所はなかったと思う。

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やっとの思いで頂上(おそらく)に到着。ここは鎌倉時代より旅人の憩いの場として栄えた接待茶屋の跡地。当時茶畑はないが、お茶でも飲みながら景色を楽しんでいたことだろう。

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名物の子育飴を売っている扇屋。まだ朝も早いため閉まっている。掛川市が店を買い取って近隣住民の協力によって土日祝のみ営業しているらしい。たいへんご苦労なことです。いつの間にか掛川市入ってたんだな。
夜泣石伝説ゆかりのお寺、久延寺は撮り忘れた。夜泣石は現在国道1号線の小夜の中山トンネル脇に置いてあるのだそうだ。

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主張の強い「茶」。草かんむりの横棒だけでも100m以上の長さだとさ。この茶文字は昭和7年頃にお茶のPRのために地域住民が協力し、粟ヶ岳の急斜面にマツを植え付けたのが始まりだそうで。マツは食害にあってヒノキに植え替えられたそうだが、今でも定期的にメンテナンスしており、このあたりを行き交う人達のランドマークになっている。こういうシンプルだけど視覚に残るPR方法けっこう好き。

またこのあたりは茶畑だけでなく、東海道の歌の名所としても有名なようだ。古くは歌枕として古今和歌集に歌われ、鎌倉時代には西行法師が詠んだものが新古今和歌集に載っている。それ以外にも多くの人がこの地を歌に詠んでおり、歌碑が至るところにあった。

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芭蕉のものもあった。「歌の意味なんぞしるか!」と思いつつ古文の授業を受けていた高校時代を思い出す。しかしこれなら理解できる。Twitterみたいなもんだな。

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元々夜泣石があった場所。紆余曲折あって前述の通り現在は国道1号線の脇にあるそうで。

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浮世絵はデフォルメされていることが多い。これなんか角度60°くらいありそうで、現実にあったらただの崖だ。しかし実際に登るとそれくらい急に感じたのだ。広重はデフォルメの天才か?

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なんじゃこの下り坂!?

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少し下ってから振り返るとこんな感じ。体感45°くらいに感じるが、実際はこれでも20°もないくらいなんだろうなぁ。アスファルトに苔が生えてるのはちと危ないね。

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こりゃまたすごいわ。すごいしか言えない。

無事小夜の中山を越え、ほどなく日坂宿に到着した。

㉕日坂宿(静岡県掛川市)

25.日坂

先ほども紹介したが浮世絵に描かれているのは小夜の中山。しんどかった。

日坂宿は小夜の中山の西側に位置し、中世より峠の前後の休憩地点としての役割が大きかったようだ。当然鉄道をこの地に通すのは難しく、東海道線からは離れてしまい、宿としての機能は衰退していったのだ。

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地域振興の一環か、当時あった店の名を書いた札がどの建物にも掲げられていた。

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江戸時代末期の旅籠、萬屋。1852年(嘉永5年)の大火で日坂宿のほとんどが消失したがその後再建したそうだ。

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旅籠、川坂屋。日坂宿で一番西にあった旅籠で、旅籠ではあるが床の間付きの上段の間があり、身分の高い武士や公家なども宿泊したようだ。こちらはなんと無料で見学できるが、営業時間までは30分ほどあり、かなりの足止めとなってしまうため見学は断念。

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公衆トイレも見事に景観に溶け込んでいる。

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高札場も復元されている。日坂宿は規模こそ小さいが、旧宿場エリア一帯で雰囲気を残す取り組みを行っているのがよくわかった。近くには道の駅掛川があるので、車乗り、バイク乗りが休憩がてら観光するのにはちょうど良いかもしれない。

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次は掛川宿を目指す。本日もあいにくのカンカン照りの夏日であるが、幸いなことに日陰が多くて歩きやすい。


㉖掛川宿(静岡県掛川市)

26.掛川

掛川市は江戸時代には東海道の主要な宿場町、また掛川城の城下町として発展したようだ。牧之原台地の緑茶に代表されるように農業が主要産業となっている。また静岡県西部の工業地帯であり、大手メーカーの工場が並ぶさまが新幹線からよく見える。

それなりに大きな街なので、昔の建物は発展の過程で消えてしまったようだ。城があるからまあいいか。

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信金だから蔵っぽいデザインにしてるのかな。旧宿場の本陣や問屋場の跡地付近は金融機関になっていることが多い。そして宿場を意識してか意匠を凝らしたデザインのものが多い。金融機関以外にも予備校も古風な外観のものがあった。静岡県やるなぁ。

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掛川城の大手門。城にはたいていデカい公園が併設されているので、座ってゆっくりと休もう。

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ここまで凝った電話ボックスは初めて見た気がする。

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城を見ながら日陰で休憩。これは江戸時代にはできなかった贅沢だろう。

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新幹線停車駅とは思えないほど趣のある駅舎。木が邪魔だ。さて次行ってみよう。

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ファミマの上に電車が止まってる?これでもれっきとした駅である。天竜浜名湖鉄道の西掛川駅。

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駅舎はこんな感じ。のんびり乗り通しの旅とかしてみたいね。

掛川宿を抜けると建物の数も減り、なんとなくのどかな雰囲気となってきた。日差しも心配していたほど強くはなく、袋井宿までは難なくたどり着きそうである。

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松が見えると心が落ち着く。

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東海道之眞中 仲道寺。お?東海道も半分まで来たか?この先も松並木が続いた。

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ど真ん中をやたら強調してくるな。そして袋井宿に到着。

㉗袋井宿(静岡県袋井市)

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袋井宿は遠州三山(法多山尊永寺、医王山油山寺、萬松山可睡斎)をはじめ歴史ある寺、神社が点在し、それらの門前町として栄えた。現在の袋井市は掛川市と似て、静岡県西部の工業地帯の一角を担ったり、農業においてはメロンの栽培が盛んだったりする。鉄道唱歌においては「掛川 袋井 中泉(見附宿)いつしか後にはやなりて」と、掛川宿、見附宿とひとくくりにされていることからも、やはり3つの街は似たような性質を持っているのだろう。

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やはりどまん中を強調してくる。距離でいったら真ん中より若干東側なのだが、どうやら五十三次の真ん中の27番目の宿場、ということでど真ん中を強調しているようだ。

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本陣跡は公園になっていた。日陰を求めてベンチで小休止。30分ほど休憩して次の見附宿へと向かう。

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ど真ん中西小学校もあった。

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江戸から数えて61番目の一里塚。244kmも来たのかぁ。

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袋井宿からさほどかからず磐田市に突入。

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ここを進むと鎌倉時代の古道らしい。古くから交通の要衝であったことをあらためて実感する。

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こっちが江戸時代の道。舗装されてはいるが当時から薄暗い細道だったのだろう。今日は坂道に悩まされるなぁ。

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小夜の中山と比べたら遥かに楽だけど、息が上がるわ。

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お、もうすぐ見附宿だ。

このあたりを少し南に行くとヤマハスタジアムがある。当日はちょうどジュビロの試合をやっていたみたいで、遠くからサポーターの大きな応援の声が響いてきた。最初はどこかの家で大音量でテレビ流してるのかと思ったわ。

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そして見附宿に到着。西日が眩しい。

㉘見附宿(静岡県磐田市)

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見附宿は天竜川の東側に位置し、大井川と同様に増水時は足止めされた人たちで賑わったという。見附の名は、水に接する土地であることが由来だそうだ。現在は磐田市に属しており、お隣の浜松市の影響が大きく、ヤマハやスズキ等の工場が存在する。また農作物では緑茶やメロンが名産であり、やはり掛川や袋井と似た性質を持っていることがわかる。あとはなんと言ってもJリーグ、ジュビロ磐田のホームタウンだ。

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風が吹くタイミングが悪すぎて何が何だか分からないが、何も磐田市はジュビロ磐田だけではない。東京オリンピックの卓球混合ダブルスで金メダルを獲得した水谷選手、伊藤選手がこの磐田市出身。街中のあちこちにジュビロとこの2名ののぼりがあった。

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磐田駅舎にも2名の横断幕が。

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2002年のワールドカップ懐かしいねぇ。

時刻はすでに17時であたりも薄暗くなってきたため、本日の行程はここまで。総移動距離は39.4kmであった。よく歩いたわ。

以上

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