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9日目 府中宿~金谷宿

昨日は気温が28℃前後まで上がり、とても暑かった。今日も同じくらい気温が上がる予報で、朝からうんざりである。本日の行程は安倍川を渡り宇津ノ谷峠を越え島田宿まで行き、余裕があれば大井川を越えようという流れ。

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日曜の朝9時の静岡市内。いくら政令指定都市とはいえ、住宅街寄りの場所は朝早いとこんなもんだよね。

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名物わさび漬け。水が豊富だと食べ物が美味しいよね。

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安倍川に到着。安倍川餅の起源は江戸時代に遡る。徳川家康がこのあたりの茶店に立ち寄った際、店主がきな粉を安倍川上流で取れる砂金に見立て、白砂糖と共に餅にまぶして「安倍川の金な粉餅」として献上した。それを家康が大層気に入ってこの地にちなんで安倍川餅と名付けたとかなんとか。

炭水化物と糖分が疲労に効くことはこの旅でよく学んだ。箱根の甘酒茶屋で味わった力餅、甘酒はとにかく体に染み渡った。甘味の少ない江戸時代においてはその効力も絶大だったのだろう。今度は営業時間内に訪れたいものだ。

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いざ安倍川。ここに架かる安倍川橋は大正12年(1923年)に開通したもの。車道部はほんの一部を除いて当時の橋脚をそのまんま利用しているっぽい。富士川橋も同時期の開通だったよね。この時期に県内の道路整備が一気に進んだのかな。

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水量はそれほど多くない。川幅は500mほど?

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遠目には新幹線。

安倍川を渡り、特にこれといったものもなく、鞠子宿に到着。このあたりはのどかな住宅街だね。

⑳鞠子宿(静岡県静岡市駿河区)

20.鞠子

鞠子宿は東海道中で最も小さい宿場だった。天保14年(1843年)の宿内人口は795人。隣に府中宿がある影響だろう。浮世絵にも描かれている様に、名物は丁子屋のとろろ汁。丁子屋の創業は戦国時代末期の1596年で、それ依頼400年以上もこの地で営業しているそうだ。

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雰囲気いいね。こちらも営業時間内に再訪したいなぁ。

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高札のレプリカもあった。忠孝奨励とはこれまた懐かしいワードだ。あれほど詰め込んだ日本史Bもいまやキーワードしか覚えていない。

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すぐに抜けた。さすが最も小さい宿場。この先に控えるは宇津ノ谷峠。

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どこにでもいる弥次喜多。

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道の駅。店の並ぶ反対側に渡るのも億劫なのでそのまま通り過ぎた。

宇津ノ谷峠は古来より交通の要衝、ならびに難所として東海道を旅行く者を困らせたという。平安時代は蔦の細道、江戸時代は山越え、明治になってようやくトンネルの掘削が進み、明治9年(1876年)に日本初の有料トンネルとして開通。しかし初代トンネルは失火で崩落して閉鎖。しかしトンネルがないと旧東海道に逆戻りということで、明治37年(1904年)に2代目が開通した。通称明治のトンネル。トンネル掘削に携わった人員は延べ21万人と書いてあった。すげえな。

勾配はさほど険しくはないが、鉄道は宇津ノ谷峠を避けて焼津を経由して西に向かう。鉄道唱歌21番には下記のような歌詞がある。

駿州一の大都会 静岡いでて安倍川を
わたればここぞ宇津ノ谷の 山きりぬきし洞の道

さも宇津ノ谷峠を掘って通過したかのような歌詞だが、実際にはまったく別の箇所を通っている。鉄道唱歌の歌詞は各地の地理をよく表しているが、ときたまこのように雑なものが紛れている。

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間の宿宇津ノ谷峠。江戸時代というよりは明治時代の名残りがある。これほとんど個人宅っていうのがすごい。個人宅前に以下の案内板があった。

秀吉公のお羽織の由来
天正18年(1590)秀吉が小田原の北条氏を攻めたとき、宇津谷(うつのや)に休息した。その際、当家の祖先が馬の沓を献上し、また戦陣の勝利を示すような縁起の良い話をしたので、帰りに立ち寄って与えたのが、当家所蔵のお羽織である。表は紙、裏はカイキ、後に家康も、この羽織を見て、記念に茶碗を与えたが、これも当家に所蔵されている。

すっげぇな。

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間の宿もなかなかの坂道であったが、ここからが宇津ノ谷峠の本番だ。手作りの木製看板がなんか気に入った。

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おー、一面の緑。マイナスイオンたぶんたっぷり浴びられるやつ。

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日陰に入ったのでとても気持ちが良い。ゆるやかな箱根って感じだ。これはハイキングにちょうどいい感じのコースだなーと思っていたら…

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うお!すげえ邪魔!

休日にちょっと出かけるのにちょうど良いコースらしく、すれ違った人は10人以上。年配の人は結構きつそうな感じだった。それに比べて平然としている我が健脚たるや。まあ箱根を越えたらもうなんでもかかってきやがれ状態ですわな。

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下りに転じた。「苔がきれいだなー、苔ラルドグリーンだなー。」とかしょーもないことを考えながら下っていた。現代だからこそ気持ち良く歩けるが、整備もままならない中世頃は最新の注意を払っていたのだろう。

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峠を下りて人里に帰ってきた。知らぬ間に静岡市を過ぎて藤枝市に入っていたらしい。松があるとなんか安心するね。しかし困ったことに日陰がないのでとても暑い。気温は昨日同様27~28℃ある。また日焼けしちゃうなー。暑さにうなだれつつ歩を進め、岡部宿に到着。

㉑岡部宿(静岡県藤枝市)

21.岡部

岡部宿は昔の街並みが残る。東海道線が通っていないため、明治以降に大きく発展することがなかったのが街並みの保存には良かったようだ。怪我の功名。

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光が…。
国の登録有形文化財、旅籠・柏屋かしばや。コロナの影響で原則県内在住者のみの利用となっているため、外観を見ておしまい。藤枝市のホームページに詳細が載っていたが、結構しっかりとした資料館となっているようだ。こちらも制限が解除されたらぜひとも立ち寄りたい。

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こう見ると静岡県の大きさがよくわかる。22箇所も宿場があったのかぁ。

東京~大阪間を移動する際に「静岡県は長い!」との感想を持つ人が多いが、東部、中部、西部とそれぞれ違った楽しみ方を見い出せば楽しくなるのになーと個人的に思う。景勝地・保養地としての東部、商業や文化の中心地である中部、国内有数の工業地帯である西部、それぞれに良さがあり、また景色の違いを楽しむことができればあっという間なのだ。まあ「楽しむ」前提として高校卒業程度の社会科の知識が必要となるのだが。

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さっと岡部宿を通り過ぎ、藤枝宿へと向かう。案内板がなくとも松並木が目印になる。

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突如高札場跡が現れた。すごい手作り感。宿場でも間の宿でもないのになぜ?と思ったら、ここは横内陣屋という、江戸時代に美濃国岩村藩が駿河国の領地を支配するために置かれた陣屋だそうだ。

「なんで美濃国が駿河国の土地を支配?」と思う人もいるかもしれない。幕府の役職は基本的に家格と同等のものが与えられた。すごーく雑に紹介するが、当時は個人より「家」を重視するのが普通で、家格が年収1,500万円相当の者は年収1,500万円の役職に充てられる、といった具合だ。中にはめちゃくちゃ有能な者もおり、家格は年収400万円しかない身分だが、その者を登用して年収1,500万円相当職に就かせることもあった。その際に差額の1,100万円を、その役職に就いている間は支給して埋め合わせることをしていた。その役職から外れたら支払わなくてよいため、幕府の財政膨張を抑えつつ人材登用ができる制度である。いわゆる足高の制。

当時の給料(=禄)は金銭ではなくコメであり、幕府から領地をあてがわれ、そこから得るコメが収入の基本である。領内の農民に年貢(コメ)を納めさせてそれを適宜換金するといった具合だ。兎にも角にも土地がないとコメを得られないため、前述の例でいうと差額の1,100万円分のコメの収穫ができる土地を領地として与えたのである。与えられる土地だが、どこの土地が与えられるかはおそらくランダム。ゆえに縁もゆかりもない地方の藩の飛び地が各地に存在するのである。

長くなったがだいたいこんな感じ。たぶん間違いあると思うけど許して。さて藤枝宿へと再び歩き始める。

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でっかいクスノキ。樹齢500年。江戸時代以降のものは旧東海道にたくさんあるが、それ以前のものとなると貴重だ。真正面から照りつける西日に文句を垂れつつも藤枝宿に到着。

㉒藤枝宿(静岡県藤枝市)

22.藤枝

藤枝市は安倍川と大井川に挟まれた場所に位置し、静岡市のベッドタウンとしての役割を担う。サッカーの盛んな街で藤枝東高校はあまりにも有名。岡部宿と違ってJR東海道線に藤枝駅は存在するが、宿場からは3kmほど離れた場所に位置する。これも宇津ノ谷峠を迂回した結果である。

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旧宿場は商店街となっていた。沼津宿や吉原宿と似たような感じだ。商店街は1kmほど続く長いものだが、ところどころシャッター街になりつつあるようだ。まあ駅から離れてたらそうなるかぁ。

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こういうのいいよねぇ。立ち寄らなかったけど。

正直なところ暑くて暑くてやってられない。宿場にたどり着いても最小限の行動で通り過ぎてしまっている。

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島田市に突入。暑い。

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某スーパーボランティアの方が通ったらしい。通るだけで記念碑が立つとか明治天皇並みの扱いだぞ。

暑さ+幹線道路はやはりしんどい。真顔で島田宿に到着。

㉓島田宿(静岡県島田市)

23.島田

箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川

箱根に並ぶ東海道の難所である大井川を有するのが島田市。川幅の広い川を渡る際は舟を利用することが多かったそうだが、大井川には渡し舟の運行すら許されなかった。許されなかった理由は諸説あり、大井川を天然の関所とみなしてそれより東の駿府城や江戸の防衛を担わせた説、川越人足(肩車して旅人を乗せていく人)の既得権益を保護する説、などなど。
天保14年(1843年)の宿内人口は6,727人で、当時の静岡県内では府中に次ぐ人口を有していたようだ。こう見ると鞠子宿の小ささがよくわかる。
大井川が増水して川を渡れない場合はここで足止めになるため、島田宿と隣の金谷宿は人で溢れて賑わったようだ。

現在の島田市は大井川鐵道のSL、世界最長の木造歩道橋である蓬莱橋といった観光名所があり、ドラマや映画のロケでもよく使用される。また牧之原台地が島田市、牧之原市、菊川市にまたがっており、茶畑が広がる。富士山静岡空港も台地の上にある。

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島田駅前には臨済宗の開祖、栄西禅師像があった。栄西と静岡に直接的な関わりはなかったと思うが、栄西は『喫茶養生記』を著して茶を飲むことを推奨したため、その縁あってこの地に像が立てられたのだろう。

あとこの像はそうでもないけど、なんで栄西の像とか絵ってあんなに頭が角張っているんだろうか。日本史勉強してる時気になってしょうがなかった。「栄西」で画像検索するとすぐ出てくるけどほんと下の絵みたいな感じよ。

栄西

島田宿も東側の跡地は商店街と化していた。西へ進むと大井川の川越のための諸施設が見えてくる。国指定の史跡である島田宿大井川川越遺跡だ。

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前述の通り大井川には渡船、架橋が禁じられていたので、徒歩で渡るか、川越人足に肩車してもらうか、いずれかの方法で渡った。

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川越人足。たくましい。

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札場。一日の仕事が終わった際に川越人足から川札という切符を集めて換金した。川札の値段は水量によって5段階(膝、股下、腰、胸下、脇)に分けられていた。また水量が脇より高いと川止めといって通行止になったようだ。

制度が始まった当初は旅人と川越人足の間で割と自由に運賃を決めていたそうだが、わざと深いところを通って高い運賃をせびる川越し不作法が横行したため、取締を強化していったそうだ。人間のやることってのはいつの時代もそう変わらないもんなんだなぁ。

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駕籠を担いで川を渡るって相当大変だろうに。ここに島田市博物館があるが、時刻は16時半でもう入場できなかったし、入場できたとしても金谷宿への到着が遅くなってしまうためスルー。

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そしていよいよ大井川。昭和3年に架設ということは富士川橋や安倍川橋と同時期の架橋だ。この時期に土木技術の著しい発展があったのだろうか。

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さて渡る。歩道は狭くて怖い。

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現在の大井川は水量が少なく、「本当に難所だったのか?」と思ってしまうほどである。戦前に大井川の中流部では発電用ダムや農業用ダムによる取水が活発化し、高度経済成長期にはさらなる開発で大井川に直接放流される水が極端に少なくなっていった。
往時は平均水深76cmほどあったらしいが、今では大部分の川底が見えるほど水量が少ない。リニアの工事に静岡県が反対の立場なのも、この大井川の水量がさらに減ることを懸念してのことだそうだ。

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流れからは外れたところに流木。いくら現在の水量が少ないとはいえ、増水時には相当量の水が流れ込むことがわかる。昨年大雨の日に新幹線で東京から大阪に向かったことがあるが、その時の大井川は確かに増水して普段は見える川底がすべて沈んでいたことを思い出した。

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渡り終えた。全長は1,000mほどで結構長く感じた。大井川を越えると駿河国から遠江国へと入る。

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牧之原台地の茶畑。すっごいぶれてる。

㉔金谷宿(静岡県島田市)

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金谷宿はお隣の島田宿と同様、静岡県島田市に属する。大井川の京都側にあり、背後には牧ノ原台地が迫る狭い土地だが、大井川の川越のために島田宿と同様に栄えたようである。JR金谷駅では大井川鉄道に乗り換えられる。

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道幅は当時からそれほど変わっていないように感じる。安倍川を越え、宇津ノ谷峠を越え、暑さに耐え、大井川を越え、そんな今日の締めくくりが坂。そろそろふとももがしんどい。

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本陣跡。旅籠はたまーに残っている場所もあるが、本陣はさすがに残っていないところがほとんどのようだ。

現在の金谷はだいぶ静かなというか、寂れたというか、人の通りの少ない街である。旧道沿いにはお店も少ない。そんなこんなで足早に立ち去り、金谷駅から帰途につくのであった。

本日の総歩行距離は43.5km。暑い中ほんとよく歩いたよ。

以上

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