野性と理性
はじめまして
この一文から始めさせていただきます。
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理性が優位な精神状態になっている。朝、ふとそんなことを思った。本を読んだり、映画を見たり、建築を考えたり、人生を考えたりしていると頭ばかり使っているなと。色々な衝動に対するブレーキが自然と強まっている。
田舎にいて部活動もやっていた時期は衝動に素直でいられた。
歌いたい踊りたいなどという衝動があった時(皆にあるものなのかは分からない)は早朝の砂浜でイヤホンをしながら熱唱して動き回っていた。あの解放感はなんとも形容しがたいものだった。卒論という圧倒的理性に反発するように野性をぶつけていた。
田舎では、東京の家賃より安くても、いい物件に住めていた。多少の音は問題にならないので声を出して笑えた、歌を歌えた。今よりも部屋が広くゆとりがあったので部屋内で運動もできた。
部活、というよりスポーツは人間を最も野性的にするものの一つだろう。卓球をしていたため、試合をすれば勝敗が決まる。特段、勝負事が好きというわけではないが、少なくとも負けたいと思って試合をしたことはない。大小さまざまあれど闘争本能が剝き出しになっていただろう。理性が優位すぎて変な思考回路の時は、「決められたルール上で、小さい台の上で40mmのボールを木の板で打ち合って喜んだり悲しんだりして、何の意味がある?」などと意味のわからないことを考えることも。しかし、実際にプレーをすると嬉しい悔しいという感情のみで動けて、理性なんてどうでもよくなる。(卓球は100m走りながらチェスをするようなスポーツだと言われるくらい頭を使うスポーツなのだが、私自身それがあまり得意ではなかった。何度頭を使ってプレーしろといわれたことか。)
社会人になると理性の塊になる。私自身は社会人になったことはない。友人の話やインターンシップで社員を見て、そしてこれまでの人生で見てきた多くの社会人を見て思う。社会人になると理性の塊になる。それはもちろん良い意味も悪い意味も含まれている。日々に忙殺され、最初にもっていた牙は抜かれ、整えられていく。そうなるのは管理する側もされる側も利点があるからということは理解している。しかし、自分も数か月後ないしは数年後にそうなるのかと思うとたまらなく怖いのである。
自分が壊れてしまわないように、自分が自分で無くなってしまわないように。野性と理性。どちらも持ち続けていきたい。
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手の届く範囲にいるあなたが
幸せでいることを願います
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