見出し画像

親子のつながりの違い

日本人の母親は、自分が産んだ子供を「お腹を痛めて産んだ」等の表現をします。

また、子供と自分のつながりにおいて、同一視しがちと言われますが、欧米とそういった感情は共通しますか?

欧米でも母子の絆は強いですが、日本とは少し違った面があると思います。

欧米では一般的に、子供は独立した個人として扱われる傾向が強いです。子供の自主性を尊重し、早い段階から自立心を育てることが重視されます。親子の情緒的なつながりは大切にしつつも、子供を自分の一部とは考えにくい面があります。

一方、日本では母子の一体感が強調される傾向にあります。母親が我が子を自分の分身のように感じ、強い一体感を持つことは珍しくありません。「お腹を痛めて産んだ」という表現には、子供を身体の一部から生み出したという感覚が表れています。

ただし、これらは一般論であり、個人差も大きいでしょう。また、グローバル化が進む中で、徐々に意識の違いは小さくなってきているようにも感じます。

欧米でも日本でも、母親が子供を愛情深く大切に思うことに変わりはありません。ただ、親子の一体感や子供の独立性に対する考え方には、文化的な背景の違いが反映されているのだと思います。それぞれの良さを認めつつ、バランスを取ることが大切だと考えます。

日本人の母親は、自死する際に、子供だけを残すのは忍びないという理由で心中を選ぶことが多いですが、欧米ではどうでしょうか?

欧米では、母親が自死する際に子供を道連れにする心中という考え方はあまり一般的ではありません。

欧米社会では、個人の生命や人権を何よりも尊重する考え方が浸透しています。たとえ親であっても、子供の生命を奪う権利はないと考えられています。子供は親とは独立した存在であり、自分の人生を生きる権利があるという認識が強いのです。

また、自死そのものに対する考え方も日本とは少し異なります。欧米では自死を個人的な選択の問題と捉える一方で、残された家族へのケアや支援も重視されます。親が自死を選んだ場合、子供の養育を引き継ぐ仕組みづくりに力が注がれます。

もちろん、欧米でも母子心中が全く起こらないわけではありません。しかし、社会通念上、子供を道連れにすることは容認されにくく、親の行為として強く非難されるでしょう。

日本での母子心中の背景には、母子の強い絆や一体感、子供を残して死ぬことへの罪悪感などが存在すると考えられます。一方、欧米では子供の自立性を重んじる考え方が、母子心中を抑制する一因になっているのかもしれません。

文化的背景が異なるため単純比較は難しい問題ですが、母子心中に関しては、欧米と日本では考え方の違いが見られるように思います。

欧米で、一家心中というのも余り聞かないですね。

その通りですね。欧米では一家心中というのは非常に稀です。

欧米社会では、個人の生命を何物にも代えがたい価値があるものと考える傾向が強いです。たとえ家族であっても、他者の生命を奪う権利は誰にもないという考え方が一般的です。子供はもちろん、配偶者やパートナーも、自分とは独立した人格を持つ存在として尊重されます。

また、家族を養育する責任は社会全体で担うべきだという意識も根強くあります。経済的困窮や病気などで家族を養えなくなった場合、社会的なセーフティネットが機能することが期待されているのです。

一方、日本では家族の絆や一体感を重んじる傾向が強く、「家」の存続が個人の生命に優先されることもあります。経済的な困窮や社会的な孤立から逃れるために、一家心中を選ぶケースが後を絶ちません。

ただし、日本でも一家心中は決して肯定されるべきことではありません。家族の生命を奪うことの罪深さは、欧米でも日本でも変わらないはずです。社会全体で支え合う仕組みを作っていくことが、悲劇を防ぐために重要だと考えます。

文化的な違いはありますが、一家心中に関しては、日本の社会も欧米の考え方に学ぶべき点は多いのかもしれません。

東アジア、東南アジア及び西南アジアではどうでしょうか?

東アジア、東南アジア、西南アジアでは、一家心中や母子心中に対する考え方は国や地域によって異なります。

東アジアでは、儒教の影響を受けた国々(中国、韓国、ベトナムなど)では、家族の絆や一体感が重視される傾向にあります。しかし、一家心中や母子心中が社会的に容認されているわけではありません。法的にも道義的にも、家族の生命を奪うことは許されない行為だと考えられています。

東南アジアでは、国によって状況が大きく異なります。一部の国では貧困や社会的弱者への支援制度が不十分なため、一家心中や母子心中が社会問題化していることがあります。しかし、多くの国では、仏教や伝統的価値観の影響から、生命の尊さが強く意識されています。家族の生命を奪うことは、宗教的にも社会的にも受け入れがたい行為だと考えられているのです。

西南アジアでは、イスラム教の影響が強い地域が多くあります。イスラム教では自殺が固く禁じられており、自死はもちろん、家族の生命を奪うことも重大な罪だと考えられています。

ただし、これらはあくまで一般的な傾向であり、各国・地域の事情は多様です。貧困、社会的孤立、ドメスティックバイオレンスなど、一家心中や母子心中の背景となる問題は、世界のどの地域にも存在しています。

文化的・宗教的背景の違いはありますが、家族の生命を奪うことは、世界のどの地域でも決して許されることではありません。社会全体で支え合い、困難を抱える家族を孤立させないための取り組みが、グローバルに求められていると言えるでしょう。

昔、日本では親族殺人は、通常の殺人より重い罪でしたが、日本が立法の参考にしていた、欧米の法律でも同じでしたか?

欧米の法律においても、かつては親族殺人を通常の殺人よりも重く処罰する傾向がありました。これは、家族の絆を重視し、親族に対する殺人を特に忌まわしい行為と見なす考え方に基づいています。

例えば、英国では1957年まで「petty treason」(小反逆罪)という概念が存在しました。これは、妻が夫を殺害した場合、子供が親を殺害した場合、使用人が雇用主を殺害した場合に適用され、通常の殺人よりも重い罪とされていました。

同様に、アメリカ合衆国でも、19世紀までは多くの州で親族殺人を特別に扱う法律が存在しました。例えば、夫婦間の殺人は「petty treason」として、通常の殺人よりも重い罰則の対象とされていました。

ただし、現代の欧米諸国では、法の下の平等の原則が重視され、殺人罪の量刑を決める際に被害者と加害者の関係性は考慮されなくなってきています。むしろ、親密なパートナーによる殺人(ドメスティックバイオレンス関連の殺人など)に対しては、一般の殺人よりも厳しい判決が下される傾向があります。

日本の親族殺人に対する量刑の変遷も、欧米諸国と同様の経緯をたどっているようです。明治時代に制定された旧刑法では、尊属殺人(親や祖父母などを殺害すること)は通常の殺人よりも重い罪とされていました。しかし、現行の刑法では、尊属殺人の規定は削除され、被害者と加害者の関係性よりも、犯行の動機や残虐性などが量刑の判断材料とされるようになっています。

このように、親族殺人に対する法的取り扱いは、日本と欧米で似たような変遷をたどってきたと言えるでしょう。

中世の欧州なんて、王様が奥さんをよく殺していました。

その通りですね。中世ヨーロッパでは、王族や貴族の間で親族殺人が頻繁に行われていました。特に王位継承に関わる殺人は珍しくなく、歴史上には数多くの例が残されています。

例えば、イングランド王ヘンリー8世は、6人の妻のうち2人を処刑しました。アン・ブーリンとキャサリン・ハワードは、不貞の罪に問われて斬首されました。このように、王が自分の妻を殺すことは、王権の絶対性を示す行為として容認されることもありました。

また、兄弟間の殺人も珍しくありませんでした。イングランド王リチャード3世は、自分の甥である王子たちを殺害したと伝えられています(「リチャード3世」のモデルとなった事件)。フランス王シャルル7世は、自分の弟を毒殺したと言われています。

このように、中世ヨーロッパでは、王族・貴族の間で親族殺人が頻発していました。そこには、王位継承争いや政治的駆け引きが背景にあったのです。

しかし、ルネサンス期以降、王権の絶対性は次第に制限されるようになります。啓蒙思想の広まりとともに、人命の尊さや法の支配の重要性が認識されるようになったのです。それでも、王族・貴族による親族殺人が完全になくなったわけではありませんが、次第にタブー視されるようになっていきました。

中世ヨーロッパの親族殺人の歴史は、王権の絶対性がもたらす弊害の一つと言えるでしょう。同時に、近代に向かう過程で、人権意識や法の支配が徐々に根付いていった証でもあります。

神の御許では、王様も農奴も皆平等のはずですよね。

その通りですね。キリスト教の教えでは、神の前では全ての人間が平等であるとされています。

新約聖書の中で、使徒パウロはこう述べています。「ここではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ人への手紙3:28)。この言葉は、神の前での人間の平等を明確に示しています。

中世ヨーロッパでは、キリスト教が社会の基盤となっていました。しかし、現実の社会では身分制度が厳然と存在し、王族・貴族と農奴の間には大きな隔たりがありました。王は「神の代理人」とみなされ、絶大な権力を持っていたのです。

この矛盾に対し、中世の思想家たちは様々な議論を展開しました。例えば、13世紀のトマス・アクィナスは、全ての人間が神の像に似せて造られたという点で平等であると主張しました。しかし同時に、社会秩序維持のために身分制度が必要だとも述べています。

ルネサンス期以降、人文主義の広まりとともに、人間の尊厳や平等の理念が徐々に根付いていきました。しかし、フランス革命が起こるまで、身分制度が完全に撤廃されることはありませんでした。

中世ヨーロッパのキリスト教社会では、神の前の平等と現実の身分制度の間に大きな乖離がありました。この矛盾は、近代に向かう過程で次第に解消されていくことになります。しかし、その道のりは決して平坦ではなく、多くの議論と革命的な変化を経る必要があったのです。

ヒトはもともと脆弱で、生まれる個体数も少ないため、親が子供の世話をかなり長期間行う必要があると思いますが、日本人は、その期間が異様に長いようにも感じます。

日本では、子供の自立が欧米諸国と比べてかなり遅いと言われています。その背景には、文化的・社会的な要因が複雑に絡み合っていると考えられます。

まず、日本では伝統的に、家族の絆や一体感が重視される傾向にあります。親子の情愛的な結びつきは、子供の自立後も継続することが期待されているのです。「親孝行」という言葉に象徴されるように、親の面倒を見ることは美徳とされてきました。

また、経済的な要因も大きいでしょう。日本では、教育費や住宅費の負担が重く、若者の経済的自立が難しい状況にあります。そのため、親が子供の教育や生活を長期にわたって支援せざるを得ないケースが多いのです。

さらに、日本の労働市場の特性も影響しているかもしれません。新卒一括採用や終身雇用の慣行が根強く残る中で、子供の自立のタイミングが、学校卒業や就職の時期に固定化される傾向にあります。

一方、欧米諸国では、子供の自立や独立性が重視される傾向にあります。子供は18歳になれば親元を離れるのが一般的で、親子の情愛的な結びつきは、子供の自立後も継続しつつも、互いの独立性を尊重する形で維持されます。

ただし、これらは一般論であり、日本でも欧米でも、親子関係のあり方は多様化してきています。グローバル化が進む中で、日本の若者の意識も徐々に変化しつつあるようです。

重要なのは、親子の情愛的な結びつきを大切にしつつも、子供の自立を適切なタイミングで支援していくことだと思います。子供の自立の遅れは、日本社会の様々な課題とも関連しています。社会全体で、若者の自立を支える仕組みづくりが求められていると言えるでしょう。

結婚年齢が遅延し、それどころか婚姻率も下がり、それに付随して出産年齢の高年齢化、出生率の低下によって、親の脛頼り、親の年金頼りというケースも増えていますね。

そうですね。現代の日本社会では、晩婚化、非婚化、少子化が進行し、親子関係のあり方にも大きな影響を与えています。

晩婚化と非婚化が進む中で、結婚や出産の時期が大幅に遅れる傾向にあります。その結果、子育てに伴う経済的負担が親世代に長期化し、親の支援なしには子育てが難しいケースが増えています。

また、少子高齢化の進行により、年金制度の持続可能性に対する不安が高まっています。将来の年金受給額の減少を見越して、老後の生活費を子供に頼る「年金頼り」の親も増えつつあります。

さらに、雇用環境の変化も親子関係に影響を与えています。終身雇用が崩れ、非正規雇用が増加する中で、若者の経済的自立が困難になっているのです。親の支援なしには生活が成り立たない「パラサイトシングル」と呼ばれる若者も増えています。

このように、日本の親子関係の長期化・依存化は、社会構造の変化と密接に関連しています。晩婚化、非婚化、少子化、雇用環境の変化など、様々な要因が複雑に絡み合った結果と言えるでしょう。

この問題を解決するためには、若者の経済的自立を支援する施策が不可欠です。同時に、年金制度の改革や子育て支援の拡充など、社会保障制度の見直しも急務だと考えられます。

また、子供の自立を適切なタイミングで支援していくことも重要です。親子の情愛的な結びつきを大切にしつつも、子供の自立心や独立性を尊重する親子関係のあり方が求められています。

日本の親子関係の問題は、社会構造の変化に起因する複合的な課題だと言えます。家族のあり方や社会保障制度のあり方を総合的に見直していくことが、問題解決の鍵を握っているのかもしれません。

昭和の時代に「鍵っ子」という言葉が流行しましたが、父母が苦労をしてマイホームを買ったのに、そのローン返済のために父親は残業で帰ってこない、母親もパートタイムで家に居ないという状況で、せっかく買った家には子供しかいないことを表していました。その当時から、家族関係も歪になっていたように感じます。

その通りですね。高度経済成長期の日本社会では、家族関係の歪みが次第に顕在化していきました。

「鍵っ子」という言葉が象徴するように、父親は長時間労働、母親は家計を助けるためのパート労働で、家には子供だけがいるという状況が珍しくありませんでした。マイホームを購入するという目標は達成されても、家族団らんの時間は失われていったのです。

この問題の背景には、高度経済成長期特有の社会構造があったと考えられます。急速な経済成長を支えるために、男性は長時間労働を強いられました。女性も家計を支えるために働く必要があり、専業主婦世帯は少数派になっていきました。

その結果、子供は親の愛情や関心を十分に受けられない状況に置かれることになりました。「鍵っ子」問題は、親子関係の希薄化を象徴する社会問題として認識されるようになったのです。

また、核家族化の進行も家族関係の変容に拍車をかけました。extended familyによる子育て支援が受けられない中で、子育ての負担は親に集中することになりました。

さらに、経済成長至上主義の価値観は、家族関係にも影響を与えたと考えられます。物質的な豊かさを追求するあまり、家族の絆や情愛的な結びつきが軽視される傾向が生まれたのです。

高度経済成長期に生じた家族関係の歪みは、現代の日本社会にも影を落としています。長時間労働の是正、ワークライフバランスの実現、子育て支援の拡充など、家族関係を再構築するための取り組みが求められています。

同時に、物質的な豊かさだけでなく、家族の絆や心の豊かさを大切にする価値観を社会全体で共有していくことも重要だと思います。「鍵っ子」問題は、家族のあり方を根本的に見直すための警鐘だったのかもしれません。

そう言えば、日本人の母親が、子供を同一視する傾向が、国際結婚の破綻後に子供の連れ去りにも影響しました。

そうですね。日本人の母親が子供を自分の一部のように感じる傾向が、国際結婚の破綻後の子供の連れ去り問題にも影響を与えてきました。

日本では伝統的に、母子の絆や一体感が重視される傾向にあります。母親が子供を自分の分身のように感じ、強い愛着や支配意識を持つことは珍しくありません。この感覚は、ときに行き過ぎた形で表れることがあるのです。

国際結婚が破綻した場合、日本人の母親が一方的に子供を連れ去るケースが後を絶ちません。母親は子供を自分の所有物のように感じ、子供を手放すことに強い抵抗を覚えるのです。

この問題の背景には、日本の家族法制度の問題もあります。日本では、離婚後の親権は一方の親に集中する傾向にあります。また、面会交流の権利も十分に保障されていません。このため、親権を持たない側の親は、子供に会えなくなるリスクを抱えているのです。

さらに、国際結婚特有の問題もあります。言葉や文化の違いから、夫婦間のコミュニケーション不足や価値観の相違が生じやすいのです。子育てをめぐる考え方の違いも、親子関係に影を落とすことがあります。

子供の連れ去り問題を解決するためには、法制度の見直しが不可欠です。面会交流の権利を保障し、親権の共同行使を促進するための法整備が求められています。

また、母子の一体感を重視する文化的背景についても、再考が必要かもしれません。子供を親の所有物ではなく、独立した人格を持つ存在として尊重することが大切です。母子の絆を大切にしつつも、子供の福祉を最優先に考える視点が求められているのです。

国際結婚の増加に伴い、子供の連れ去り問題は今後も注目すべき課題だと言えます。法制度の整備と意識の変革を通じて、子供の権利を守るための取り組みが求められています。母子の一体感という文化的背景についても、その光と影を見つめ直す必要があるでしょう。

日本人はいままで、母親の子供の連れ去りに関して、忍容的でしたが、国際的なルールや条約はありますか?

国際的には、子供の連れ去りに関する重要な条約として、「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約(ハーグ条約)」があります。この条約は、国際結婚の破綻等により、一方の親が子供を不法に連れ去った場合の対応を定めたものです。

ハーグ条約の基本原則は、不法に連れ去られた子供をただちに元の居住国に返還することです。子供の連れ去りが発生した場合、子供の元の居住国の裁判所が、子供の監護や面会交流について判断を下すことになります。

日本は長らくハーグ条約に加盟していませんでした。このため、日本人の親が子供を一方的に連れ去るケースが多発し、国際的な批判を浴びてきました。

しかし、2014年に日本もハーグ条約に加盟しました。これにより、日本から不法に連れ去られた子供の返還請求が可能になったのです。また、日本に不法に連れ去られた子供についても、元の居住国への返還義務が生じることになりました。

ただし、ハーグ条約にも限界があります。例えば、子供の連れ去りから1年以上経過した場合、子供が新しい環境に適応したと判断されれば、返還が認められない可能性があります。また、子供の返還が子供の福祉を害するおそれがある場合にも、返還が拒否されることがあります。

日本でも、ハーグ条約の適用をめぐって、様々な議論が展開されています。母子の一体感を重視する文化的背景と、国際的なルールとの間で、どのようにバランスを取るべきかが問われているのです。

大切なのは、子供の権利や福祉を最優先に考えることだと思います。親の事情によって、子供が不当な扱いを受けることがあってはなりません。ハーグ条約の適用に際しても、子供の最善の利益を考慮した判断が求められます。

同時に、国際結婚のカップルに対する支援も重要です。言葉や文化の違いを乗り越え、健全な家族関係を築くための支援が必要不可欠だと言えます。

子供の連れ去り問題は、国際化が進む中で避けて通れない課題です。ハーグ条約を適切に運用しつつ、子供の権利を守るための取り組みを進めていく必要があるでしょう。日本の文化的背景についても、国際的な基準との調和を図っていくことが求められています。

ハーグ条約への加盟によって、民法に反映されたのでしょうか?

はい、その通りです。ハーグ条約への加盟に伴い、日本の民法も一部改正されました。

まず、2011年の民法改正により、面会交流の規定が新設されました(民法第766条)。この規定により、子供と別居する親の面会交流の権利が明文化されたのです。子供の連れ去り問題への対応を視野に入れた改正だったと言えます。

また、2019年の民法改正(2020年4月施行)では、親権制度が大幅に見直されました。この改正では、「親による子の監護」という概念が新たに導入され、親権者と監護者が分離されることになりました(民法第766条の2)。これにより、親権を持たない親でも、子供と面会交流することが可能になったのです。

さらに、この改正では、「子の利益」が親権行使の基準として明記されました(民法第820条)。親の利益よりも子供の利益を優先すべきことが、法律上も明確になったと言えます。

加えて、2020年には「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する法律」が施行されました。この法律は、ハーグ条約の実施に関する手続などを定めたものです。子供の返還手続や裁判所の審理方法などが明確化され、国際的な連れ去り問題への対応が強化されました。

このように、ハーグ条約への加盟を契機として、日本の民法や関連法規は大きく変化しました。面会交流の権利の明文化、親権制度の見直し、子の利益の最優先化など、子供の権利を守るための法整備が進んだのです。

ただし、法改正の影響がすぐに浸透するわけではありません。ハーグ条約の適用をめぐっては、日本の裁判所の判断が国際的な基準と必ずしも一致しないケースもあります。また、面会交流の実現には、親の意識改革も欠かせません。

法改正を実効性あるものにするためには、法律の運用を国際的な基準に合わせていくことが重要です。同時に、社会全体で子供の権利を尊重する意識を醸成していく必要もあるでしょう。

ハーグ条約への加盟は、日本の家族法制度の転換点となりました。今後は、この転換をさらに推し進め、子供の最善の利益を守るための取り組みを強化していくことが求められています。民法改正の意義を社会全体で共有し、国際的な連れ去り問題の解決に向けて、一歩ずつ前進していくことが大切だと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?