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チーズはどこへ消えたん?

「あんたぁ、あたしのチーズ食べたんちゃうやろな?」

いきなり朝から妻の先制パンチを喰らった。

もうここ何十年も互いに愛称はおろか、名前で読んだことはない。人としての名前があったのかさえ疑問だ。

おはようの代わりに発せられた言葉から推察するに、妻が購入したであろうお気に入りのチーズがどうやら紛失しているようである。

しかもその犯人は娘や息子ではなく、突き刺さるような視線で挑む口調からも、一家の大黒柱である私に全集中していることは間違いないだろう。

これはやっかいだぞ。

私は朝から垂れ込める暗雲に胸が苦しくなり、呼吸を忘れた。

「なんのことだ?」

努めて穏やかな口調で、刺激しないように返事をした。

「あたしが楽しみにしてたチーズが冷蔵庫から消えてるねん!食べたとしたらあんたしかおらんやろ!」

やはり私の推理は当たっていた。このような場合、古い洋館のリビングで一堂を会して真犯人を言い当てる名探偵なら気持ちいいものだろうが、あいにくここには私とかつて愛した(であろう)妻しかいない。

私が犯人ではないことを分かってもらうにはどうすればいいだろう?

しかし、ここで一つ問題がある。

私が心から愛する子供たちが食べたという真実を私は父親として、柱として、全力で鬼嫁からかばってやらなければならない。

もちろん私のやわな刀では傷をつけることさえ難しいだろう。

しかもこの鬼は朝の光が燦々と部屋に充満しているというのに、一向に消える気配すらなく、存在感はますます増大するばかりである。

それでもボクはやっていない。

私は貝になりたい。

眼光するどい鬼が私を見下ろしている。これだけ気配を隠しているというのに両目に文字でも刻まれているのだろうか。

以前にも似たようなことがあり、反論を試みたのだが、見事に返り討ちに合った。とても敵う相手ではない。その時のあざがうっすらと浮かび上がってくるのを感じる。

どうやら私の寿命もそう長くはないらしい。

さて。

私は深く呼吸をし、気を落ち着けた。

「あたしが今日のこの日をどれだけ楽しみにしてたんか知らんやろ?」

知らん。

「毎日毎日、家のこととか、子ども達の世話、夜遅くに酒の臭いをさせながらお帰りあそばれる亭主のお相手をする女の気持ちを少しでも考えたことあんの?」

妻は私をなじりたい時にだけ敬語をおつかいあそばれる。

そもそも私が帰った時に起きていたことなど新婚時代から数えるほどしかないのだが、威圧的な視線を向けられると内心土下座しつつ、早くこの場から逃れたいという気持ちがつのるばかりである。

ダメだ、何を言ってもダメだ。

全ての決定権は妻にあり、妻の言うことは絶対である。私に拒否する権利は無い。妻が「正しい」と言ったことが「正しい」のだ。妻に指図することは死に値する。

逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。

集中するのだ。集中するのだ。

目標をセンターに入れてスイッチ。目標をセンターに入れてスイッチ。目標をセンターに入れてスイッチ。目標をー

ハッ!


気づくと私は頭(こうべ)だけになっていた。

床には赤い液体が広がり、考える気力さえない。妻が激怒のあまり、ワインをこぼしたのだ。

チーズはどこへ消えたのだろう?

チーズとは何だったのか?

ふむ。

ほー。

ねず公が憎い。

こうして今日も私の仏滅の一日に刃が向けられるのだ。

夫婦の呼吸を体得する自信は全く無い。

この世に鬼は確かにいる。



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