「自立」はいつ成しえるのか

いつだったか。大学何年目かのある冬のこと、私は突如自分がどうしようもなく孤独なことに気付いた。

親しくしていた大学の友人と、明瞭な言葉もなしになんとなく疎遠になったと感じた瞬間だった。その時から1週間ほど、私はただ自身がなぜここまで孤独に苛まれるようになってしまったのかと考えた。
自分が失意のまま人生を終える姿がありありと浮かび、そんな終わりはとても耐え難かった。この孤独をどうにかしなければと思い巡らせ数日が経ち、私はそれの正体を知った。

それは満たされることのない愛情の枯渇だった。自分が思っているよりも、自分は誰からも愛されていないし必要とされていないと理解した。
愛情深い友人は私にとって特別な存在だったが、友人にとって私はそれほどの存在ではなかったことに気付いてしまった。意識の中で覆い隠された湧き出ることのない泉が、その瞬間にはっきりと眼前に現れた。

思えば「依存」。どれだけ人と触れ合おうと、何を与えられようと充足することがない。一時的な満足では到底埋め合わせができない、生まれ持って自分を愛してくれる存在がいないという寂しさには対抗できない。
だから私の中に人に与えるだけの愛情はなく、にも関わらず暗黙の要求は絶えることはなかった。当然ながら他者からの愛情は無限ではない。他者と、他者の愛情に依存する限り、私の人生に喜びは訪れない。

そう気付いて、愛情を欲しがることはやめた。
以前として、私は独りだった。誰かに与えるような精神的資産などなかった。それでも、非生産的なことはやめよう。愛情を欲しがるのではなく、自分から作り出そう。他者の作り出すものは有限だけれど、自分の作り出すものなら有限ではないはずだから。

「自立」を初めて求めたのはその時だった。

「自立」の定義

1 他への従属から離れて独り立ちすること。他からの支配や助力を受けずに、存在すること。「精神的に自立する」
2 支えるものがなく、そのものだけで立っていること。
ーgoo辞書(「自立」より)

自立とは何だろう。
私自身漠然とではあるが、外的には「他者に寄らず自分の行動を基軸として物事を進めていくこと」、内的には「自分自身で自己を満たしまた扱うこと」、すなわち「他人がいてもいなくてもいい状態」を「自立」としてきたように思う。
他人から与えられるものに頓着も執着もしないと疲弊も減り、次第にその状態が面白くなる。自己を中心としてみえる世界を知ってからというもの、私は「自立」を価値の高いものとして追い続けた。

このところ、「自立」とは「依存先を増やすこと」という言葉もよく目にするようになった。

 それまで私が依存できる先は親だけでした。だから、親を失えば生きていけないのでは、という不安がぬぐえなかった。でも、一人暮らしをしたことで、友達や社会など、依存できる先を増やしていけば、自分は生きていける、自立できるんだということがわかったのです。
 「自立」とは、依存しなくなることだと思われがちです。でも、そうではありません。「依存先を増やしていくこと」こそが、自立なのです。これは障害の有無にかかわらず、すべての人に通じる普遍的なことだと、私は思います。
ー熊谷 晋一郎(「大学生協の保障制度」より)

先の定義よりも、より現実に即したものだと感じさせられる。
依存と「自立」は共存する。依存していない人間などいない。依存がなければ「自立」も存在しない。

とはいえ、ただ依存先を増やすだけでは「自立」は達成できない。あくまでも、依存先を「なくても生きていけるがあったらより良い」状態に保つ努力をして初めてそれは達成できる。

「依存」の誘惑と受容

しかし、日々自身も周囲も刻々と変わっていく。
そんな中で「自立」を保ち続けることは思った以上に難しい。さあ「自立」をしようと思って生きていても、たまにどうしようもなく「依存」ーここではすなわち「自立」の存在しない全面的な「依存」ーが魅力的に見える日がやってくる。

特に今のように不安定で先の見えない状況において、そうした「依存」欲求と戦うことは本当に大変だ。周囲には余裕をもって振る舞えることに満足感は覚えるが、内心何もしたくないし、1年くらい何の心配もせずに休みたいし、正直全てを投げ出して甘えたいような気持がする。現実逃避的かつ全面的な、自立のない「依存」によって得られる一時的な安心感と満足感は、如何ほどのものだったか。「自立」とは、本当に必要なのか。

きっと少し「自立」につかれているのだろう。
そんな中、常に「自立」を目指す必要は本当にあるのだろうか、と問いかける記事を発見した。

 経済的・社会的な資質にも限界があります。それに、相互依存のギブアンドテイクをあまりにもキッチリやろうとすると、くたびれてしまいませんか。そこまで頑張ってまで「自立した人」を目指す必要って、本当にあるのでしょうか。
  いついかなる時も「自立している人」であり続けるのは、それはそれでしんどいものですし、人間がはじめから「自立している人」として生まれてくるわけではない、という事実を忘れてはいけないように思われるのです。
人間の人生は依存に始まり、依存に終わります。
 迷惑や責任の問題を厳密に考えるなら、いつでもどこでも「自立」がベストかもしれませんが、完璧主義的に「自立」を目指すのも、それもそれで危うい気がします。「自立」とは言い難いような依存も、まあ、少しぐらいはあったっていいんじゃないでしょうか。
ー熊代 亨(「ブロガーズ・コラム」より)

一時的に「依存」に傾きがちだったとしても、長い人生の点のうちのほんの一瞬、外れ値であるということを考える。
人生は総合判断であるならば、そうした状態を注意深く観察しつつ、受容するくらいの気構えでもいいのかもしれない。

「自立」には"迷惑"が必要

なぜ「自立」したいのかといえば、その方が有意義に過ごせるし楽しい。自立できれば行動の選択肢が増えるし、依存先に過度な負担を掛けることもない。「自立」は目的ではなく方法である。
ならば時に「依存」している場合においては、過度に「自立している姿」を追い求めるよりも、背景や本来の目的に背いた行動をしないように注意して自身や周囲の状態が整うことを待つ方が望ましい。

ところで、「自立」の端々に出てくる単語として、”迷惑”がある。引用文の中でも”迷惑や責任を考えるのであれば「自立」がベストかもしれないが”という言葉があったように、「自立」すべきという文脈の中にはしばしば「迷惑をかけないため」という言葉が使われるのではないだろうか。つまり、依存を肯定し「自立」を成しえる際にはこの”迷惑”が障壁の1つとなる。

一見、迷惑と「自立」は相反するように見える。しかし実際にそうなのだろうか。そもそも、迷惑をかけることはいけないことだろうか。

かつては迷惑をかけることに罪悪感を感じていたし、今でも平均よりはかけている方だと思うので、迷惑をかけることがいいとは言い難い立場である。それでも今は、迷惑をかけるという行為を肯定している。

「他人に迷惑をかけないようにしなさい」と教え育った社会が生むもの
●どこからが迷惑かわからないため、常に相手の顔色を伺う
●迷惑をかけない人間はよくて、かける人間はだめという価値基準ができる
●迷惑をかけたくないので相談しない、頼まない関係ができる
●迷惑をかけられたら拒絶してもいい土壌ができる
●迷惑をかけたくないという動機で自殺ができる
「他人に迷惑をかけない」という教えが生むものより)

以前、恋愛「依存」に陥っていた時に出会ったとあるブログから、要点を抜粋した。原文はフランクな書きぶりであるが私はこの人の思想が好きだ。

先の話と合わせるならば、人間は依存しなければ生きられない。そして、依存と迷惑は切り離せない関係にある。
現代は組織から個へ主体が移り、家族単位も縮小され、個人の負担が大きい時代にある。そんな現実の中で迷惑をかけるという行為は、相手もまた迷惑をかけてもよいという理由付けにもなる。彼女に言わせれば、迷惑をかけあってそれを許し合うことにより生まれるものが”愛”なのだという。

かけてきた迷惑の全てを肯定したいわけではない。
要は、きっとバランスなのだ。迷惑をかけた相手に時間がかかっても報いる意識をもつこと、支援を願うが強要しないこと、相手が支えきれない迷惑をかけるようであれば言葉にして理解を求め、ともに問題解決を開始すること。その条件を満たしていれば迷惑をかけ、そして依存をしても不利益が利益を上回りすぎることはないだろう。そしてその依存の先には「自立」がある。
「自立」を知らない頃、私にはそれができなかった。

自立はいつ成しえるのか

人生を有意義に過ごすために、「自立」は必要だ。まずは「自立」を知る。そして「自立」を成り立たせるためには程よく依存先が必要になる。依存先には、上手に迷惑をかけあう。バランスのとれない時は卑下せず自己に立ち返り、状態が整うまで行動し待つ。
そうした構造の中で、いつのまにか自立が果たされる。

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