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現代社会における「七つの大罪」の状況を概観する

最近読んでる本が立て続けにちょうど七つの大罪っぽいなと思いまして。

七つの大罪とは、キリスト教世界で「こうなったらあかんでー」という罪が7個リストアップされてる例のやつです。(ここでは漫画作品のことではありませぬ)

具体的には下記ですね。

1. 高慢(Pride) - 自分を他者よりも優れていると考える傲慢な態度。
2. 嫉妬(Envy) - 他人の幸福や成功を妬むこと。
3. 憤怒(Wrath) - 抑えきれない怒りや憎しみ。
4. 怠惰(Sloth) - 怠けて努力を怠ること。
5. 強欲(Greed) - 過剰に物や金を求めること。
6. 暴食(Gluttony) - 食べ過ぎや飲み過ぎの過剰な欲望。
7. 色欲(Lust) - 過度の性欲。

この中で、嫉妬と怠惰を単純なタブーとして片付けずに見直す動きが出てきているというのが先の二冊になるのかなと。

なら、他の5つも含めて、現代社会において七つの大罪の現状や展望がどうなってるかを考えてみると面白いかもしれないと思い立ちました。

まあ、思いつきで勢いで始めてみた企画なので堅いことは考えずにお気軽に聞いてやってください。


高慢(Pride)

まずはトップバッター「高慢」。

まあ傲慢なのはあかんですよね。確かに。

江草も傲慢な人は超超超超超嫌いです。

なんですが、まあ一方でプライドがなさすぎて卑屈なのも考え物なんですよね。

実際、自己肯定感とか自尊心を取り戻そうという話はしばしば見られます。これは、世の中の人々が自信に誇りを持てなくなってることの反映のような感じがします。特に日本人は自分が好きでなく卑屈になりがちともよく聞きます(エビデンスは知りませんが)。

一見すると傲慢な態度の方も、本当のところは、自信がなくって虚勢を張っているのが実際というのもあるでしょう。そういう意味では傲慢さを解消するために逆に健全なプライドを持たないといけないのかもしれません。

ややこしいですけど、態度としての傲慢さは嫌われつつも、内なる心の安定性の源としての自己肯定感や自尊心の重要性は見直されつつあるというのが現状でしょうか。

嫉妬(Envy)

そして「嫉妬」。

これはもう『嫉妬論』が徹底的に分析してくださっているので、江草がわざわざ加えるところもないですね。

ただ、ともかくも同書が示してくれたところは、私たちには嫉妬がつきものだということ。特に民主社会において嫉妬は不可分であるということです。

とにかく嫉妬をタブーとして嫌って排除したり押し殺したりしても、それはおそらくは臭い物に蓋をしているだけで、かえって闇の力として高まる感じがあるのです。

同書では嫉妬は七つの大罪の中でもほぼポジティブに受け入れられることがないという点で最強とも称されていましたが、そんな嫉妬でさえも、そのネガティブさをネガティブなまま受け入れた上で見直されようとしているというのは、非常に面白い展開だなと感じます。

憤怒(Wrath)

お次は「憤怒」。

これはまあ、パワハラが徹底的に糾弾され、同時にアンガーマネージメントが流行るなどしていて、世間的に排除されていってる傾向は如実に見られますね。

『ドラえもん』の世界観で雷おやじみたいな人が子どもたちを叱りつけていたような光景は今では「不適切にもほどがある」として、公共の場で怒り狂うことはタブーとなりました。

とはいえ、公共の場では憤怒は排除されつつも、SNSではその限りではないというのが現代の特徴的なところでしょう。

「SNSとは怒りのメディアだ」と誰かが言っていましたが、まあほんと、Xなりなんなりをチラと覗き見したら、だいたい誰かが何かに対して怒ってる投稿が流れてきます。そしてそれに対して「そうだそうだ」とシュプレヒコール的にいいねがたっぷりとついている。

そういう意味では、憤怒はリアルワールドの公共の場では消え失せただけで、代わりにデジタル世界で渦巻いているとも言えます。

もっとも、江草やあるいはそのフォロイーさんも、ここnoteで結局は何かしらに「怒ってる」ところもあるので、どうにも我が身に返ってくる話ではあるのですが。

まあ、義憤という言葉もあるように、全く何についても怒らず従順というのもやっぱりマズいでしょうからね。

怠惰(Sloth)

来ました「怠惰」。

勤勉性を誇りとしてる日本や、自己責任サバイバル社会のアメリカでは、かなり否定的に描かれがちな「怠惰」です。

それでも先の本も出てるように、ちょっとずつ見直されつつあるような機運が感じられます。

たとえばベーシックインカム導入に対する反論として定番なのが「そんなことをしたら人間は働かず努力せず怠惰になるぞ」というものですけれど、極論もはや「怠惰で何が悪い?」とすらなってきつつあるというわけです。

より現実的なところでも、牛歩のごとく遅い歩みではあると言えど、ブラック文化で著名な医療界においてすら、ひたすら頑張って働き続けることの美徳は相対化されて、働き方改革のメスが入るようになりました(改革としてうまくいってるかどうかは別の問題ですが)。

今まであまりに勤勉、努力、生産性、みたいなことばかり言われていたのを止めて、怠惰が見直されつつあるわけですね。

この「怠惰」の扱いは特に今後の社会を占う焦点となるところと思われるので、要注目の大罪です。(大罪に注目ってなんか面白いですね)

強欲(Greed)

でもって「強欲」。

「物や金を集めて増やしてひゃっほい」というのは、資本主義社会では肯定的に描かれてきたところがありますが("Greed is good."という名文句もありました)、これも昨今のアンチ資本主義言説の隆盛で、批判が強くなってきたところがあります。

特にこの「強欲(Greed)」という言葉レベルで言えば、2023年のノーベル経済学賞を受賞したゴールディン氏による「Greedy Work(どん欲な仕事)」の概念が認知されるようになったことは注目に値するでしょう。

「Greedy Work」とは以下のような特徴を持つ仕事を指すとのこと。

  1. 高収入が得られる

  2. 長時間労働を要求する

  3. 勤務時間や場所の柔軟性が低い

  4. 従事者に仕事への優先的な取り組みを要求する

具体的には、以下のような職業や役職が「貪欲な仕事」に該当する可能性が高いそうです。

  1. コンサルタント

  2. 弁護士(特に大手法律事務所)

  3. 投資銀行家

  4. 企業の上級管理職

  5. 医師(特に特定の専門分野)

  6. 会計士(特に大手会計事務所)

(……うん、医師はやっぱ入るよね)

要するに仕事へのフルコミットをすることで高収入が得られるというタイプの仕事なのですが、この役割を家事育児担当者ではできないために(子どもがいるがゆえにフルコミットできないので)、男女の賃金格差の原因になってるという指摘です。(隠された暗黙の前提として女性が家事育児担当者になりがちという文化的背景の存在があります)

世界的な(同国内)経済格差の拡大と少子高齢化が進んでる中で、この「Greedy Work」と「Housework / Carework」の社会的なバランスをどう取るかは、今後ますます重要な課題となると思われます。

暴食(Gluttony)

ほんで「暴食」。

これはまあ、良くも悪くもダイエット志向は高まってるので、単純にバカバカ食べるのはあんまり良いとはみなされてないし、そうする人も減りつつある傾向はあるでしょう。

安いジャンキーなフードを胃にかき込むというよりは、良質な料理を少量味わって食べるのが良いみたいな雰囲気が出てきている気がします。

とはいえ、量的な意味での「暴食」は解消されてきてるかもしれませんが、次に来るのはおそらく質的な意味での議論ですね。

たとえば、酒を飲むこと、カフェインを接種すること、肉を食べること自体の是非の話です。

お酒についてはソバーキュリアスという「下戸ではないけどあえてアルコールを飲まない」というライフスタイルが流行りつつありますし、カフェインも良質な睡眠の妨げになるとして嫌われつつあります。

そして、肉食については動物倫理的な側面でも環境問題的な側面でもますます無視できない議論になってきてる感があります。

かといって、究極、完全食みたいな無味乾燥な食事ばかりに最終なるのもどうかと思いますし。

となると、人類の食事文化はどのあたりに落ち着いたらそれは「暴食」ではなくなると言えるのか。

いつものごとくこうした「線引き問題」はほんとに難しいですね。

色欲(Lust)

最後、「色欲」。

これもまた語るのにナーバスな大罪ですよね。性質上、あんまり各々の実態が表に出てこないのでよく分からないところがあります。

ただ、異性と付き合った事がない人が増えていたり、生涯結婚しない人も増えてきていると聞きますから、いわゆる人々の草食化はけっこう進んでる可能性はあります。

セクハラもかなり厳しく糾弾されるようになってますし、テレビでのお色気シーンみたいなのもことごとく排除されるようになりましたから、公共的には「色欲」はかなり抑えられてると言ってもよさそうです。

一方で、ポルノサイトにハマるポルノ依存症みたいなものもあると聞きますし、オンデマンド配信のドラマなんかでは性的描写がむしろ過激化しているという噂もありますから、公共の場で排除されたのが、その代わりにネット上に舞台を移しただけという「憤怒」と同様の構造になってる可能性もありそうです。

しかし、「憤怒」と違った問題を呼び起こすのは、「色欲」は最終的には現実世界で生身の相手とともに解放しないと、その本質的な意図にはつながらないことでしょう。セルフプレジャーが悪いわけではないですが、セルフだけでは「色欲」の本質的存在意義が脅かされるところがあります。

カップルや夫婦のコミュニケーションの一環として「色欲」が発露されることは、愛情や親密な絆を築くことの一助にもなるでしょうし、それに、あえてドライな生物学的事情を言えば、そうしないと子どもはできないわけです(まあ人工授精はありますが)。

また、「色欲」目線を完全にタブーとした上でパートナー選びをするとなったら、結婚相談所でしばしば見られるように、「年収」「身長」「学歴」のようなカタログスペックで無機質に人間をフィルタリングすることにもなり得ますから、それはそれでどうなのと思わざるを得ません。

もちろん「色欲」がこれまでの社会の中で大いに問題を起こしてきたこと(特に女性が被害者になりがちであったこと)を考えるとやはり大罪と言うべきものではあるのですが、あまりに「色欲」が忌避されすぎることもまた、社会にとっての大問題になるのかなと。

まとめ

というわけで、唐突に「7つの大罪」の現状を考察してみましたが、いかがでしたでしょうか。

まあ、やっぱりこうして改めて見てみると、「7つの大罪」はほんと人間らしい性質だなと思わされます。

確かにこいつらほんとトラブルメーカーなやつらなんですけど、なくなったらなくなったでなんか人間らしくなくなってしまう、そういう感じがしますよね。そう考えると「7つの大罪」もむしろ愛らしく見えてきます。

だから、結局のところ、何事もバランス、過剰でも不足でもない中庸がいいよねという、とてつもなく平凡な結論に到達してしまうのですけれど、「で、今のバランスはどうなってるんだ」と確認するためにも、こうやって全体像をざっくりにでも適宜見直してみることは意義のあることなのかなと思いました。


江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。