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自由時間とモチベーションの不思議な関係

自己啓発的な言説の一つのパターンとして「どうやってモチベーションを維持するか」みたいな方向性のものがある気がします。

「よし勉強するぞー」といって机に向かったはいいけど、SNSや動画をダラダラ見続けてしまいます……、みたいな方をイメージした叱咤激励。

25分集中するごとに5分休憩していいよみたいなテクニック的なものから、「そもそも勉強するのは何のためかを考えよう」とWHYからアクセスするもの、「そもそも延々とモチベーションが湧き続けるような自分が好きなやりたいことだけ対象にするべき」とモチベーションが湧かないものはハナから排除しちゃおうぜ派など、世の中色々と取りそろえられています。

江草は自己啓発本とか好きなので、こういうのを楽しんで読むわけですけれど、モチベーションの有無を問題にするパターンの言説は、良くも悪くも時間的制約の問題は後回しになるんですよね。

つまり、「モチベーションはめちゃくちゃあるのに時間がなくて無理……」みたいなのには対応できない。だって、「モチベーションさえ上がればできる」とか「モチベーションがないからダラダラサボってしまう」と考えてるということは、「ダラダラと無駄なことをする時間はある」と暗黙に前提しているはずですから。

もちろん、改めて確認されれば「時間的制約なぞ問題でない」とは決して言わないでしょうけれど、モチベーションを律速段階として注目する場面においては、時間的な問題は少なくともひとまず棚に上げられてしまうということになります。

なので、ギチギチに「モチベーションはたっぷりあるんだけど時間がなくてできないんよ」みたいな人からすると「いいよなー、逆にモチベ湧かないからといってダラダラする時間があって」のように白けた眼でみられかねないところがあります。

で、それで出てくる対極の自己啓発的な言説が今度は「時間術」ですね。

「こうやって時間をやりくりしたら、あなたがやりたかったことをやる時間が捻出できますよ」みたいなやつですね。

これも「スキマ時間を活用しよう!」とか「時短家電を使おう!」とか「最新のTODO管理ツールで効率化しよう!」とか、まあこちらも色々と取りそろえられています。

江草は自己啓発本が好きなので、こういうのも楽しんで読んでるわけですが、こうした時間の有無を問題にするパターンの言説は、今度は逆に、良くも悪くもモチベーションの有無の問題は後回しになるんですよね。

つまり、「時間はあるけどモチベーションが続かなくて無理……」みたいなのには対応できない。だって、「時間さえ捻出あればできる」とか「時間がないからヘトヘトで無理」と考えてるということは、「何かしら有意義なことをしたいというモチベーションはある」と暗黙に前提しているはずですから。

うん。まったくさっきの「モチベーションを維持する系」の自己啓発と真逆の構造ですね。

こう見てると、結局のところ「モチベーションも時間も大事なんだね」という凡庸な話に落ち着きそうですが、それでは面白くないですから、ちょっと一捻りしてうがった見方をしてみましょう。

この構図をみて、江草はなんとなく思うんですけども、結局どっちにしてもどっちかを言い訳にするのが人のサガなんじゃないかと。

モチベーションが湧いてるときは「時間がない」と不満に思うし、時間があるときは「モチベが続かない」と不満に思う。

こんな風に、よほどモチベーションと時間のバランスがフィットしてる状態でないと、どちらかに欠乏感が生じるというのが実際なんじゃないかと。

つまり、これはあくまでモチベーションと自由時間の相対比較であって、実はそれぞれの絶対量の問題ではない可能性があるのではと思うんですね。

たとえば自由時間が24時間365日あったとしても、ものすごく何かに熱狂的と言えるほどにモチベーションが上がっていたら、それでも「時間が足りない」と思う可能性があるでしょう。

あるいは、自由時間がほとんどなかったとしても、特別にやりたいと思うようなことがなければ、「時間が足りない」と切迫感は生まれないかもしれません。

誰が言ったかは存じませんが「人生というのは何かを為すには短すぎるし、何もしないには長すぎる」とは至極名言で、「何かをやりたいと思う気持ち(モチベーション)」と「何かを為すための時間」のバランスがどうしてもぴったりは行かない。こうした根源的なジレンマが人にはそもそも存在しているのではないでしょうか。

でもって、今の社会というのは、ただただひたすら「何かをやれ」という空気圧が強くって、「何かをやりたい」というモチベーションが上がらなかったり、あるいは何かをやるための時間が足りなかったりすることに焦りを生じさせられている。

そうして、私たちにモチベーションや時間がすでに絶対量としては十分ある可能性を見させないようにしている。どっちに転んでも、もう一方が足を引っ張ってるように、常に不足しているように思わされてしまってるのではないか。

そんな風に感じるわけです。

だから、「時間はあるけどモチベが湧かないわー」とか「モチベはあるけど時間がない……」みたいに相互比較で不満(ないし不安)を募らせるのではなくって、「そもそもどちらも絶対量としては十分にあるのでは?」とか「その考え方で突き進んでも永遠に不足感から逃れられないのでは?」と、あえて相互比較から外れた感覚で見つめてみるのが面白いかもしれません。

私たちが「お腹空いたわー」とか「トイレ行きたいなー」と感じた時にいちいちブチ切れたりしないように(よほど切羽詰まったら別ですが)、「モチベ湧かないなー」とか「時間足りないなー」という感覚も、その時折で生理現象的に出没する自然な感覚として「まあそういうもんよね」と受け入れてしまう。

「あ、今モチベ足りない系のフェイズだからちょっとモチベ食べてくるわ」とか「あ、ちょっと今、時間やりくりが我慢できない厳しい状態だからrestroom休憩室で忙しさゆるめてくるわ」とかそれぐらいのノリで扱っちゃう。

「モチベーション上げなきゃ……!」とか「時間確保しなきゃ……!」みたいな不満や不安でいっぱいな必死な感覚でそれを扱わない。「まあ、こんなん生理現象だから大丈夫大丈夫」ぐらいにしてしまう。人は時々「モチベ湧かないなー」と思ったり、「時間足りないなー」と思ったりするもんでしょ、と。

逆説的ですがそうしてゆるーく取り扱った方がかえって人は自然体になれて、有意義なことにモチベーションも時間も費やせるようになるかもしれない。直観的には、そんな気さえしています。

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