100㎠のツルツルした世界
電車に乗って周囲を観察すると、ほとんどの人がスマホを見つめています。別に今になって気づいた話ではもちろんないのですが、改めてその光景を見るとなかなか独特な空気感だなあと思います。
昭和や平成初期の人たちがこの光景を見たらどう思うんでしょうね。自分たちは新聞や文庫本を開きつつ「なんでみんなあの薄い板を見てるんだ?」ってなるのでしょうか。
この電車の人々がことごとくスマホを見ている光景については、よくSNS文化が云々とか、ゲーム文化が云々などと、人々の行動が軽薄化したことの象徴として語られがちです。
ただ、江草はそういう風には思わないんですよね。江草もこう言いながら電車内でスマホを見つめてる一員なのですが、SNSやゲームというよりもKindleを読んでることの方が多いです。携帯しやすく通勤の車内に持ち込むのに便利なように文庫本が普及したのと同じで、同じく読書という行為をするために最も携帯利便性の高い電子書籍を選んでいるという経緯に過ぎません。スマホを触ってるからといって、必ずしも内容として昔の人と別のことをしてるとは限らないわけです。(もっとも、SNSやゲームも別に軽薄として貶されるものでもないと思いますが)
なので、「みんな電車の車内で具体的に何をスマホでやってるか」という点については江草はあまり気にならない立場です。
とはいえ、やはりこれだけほとんどの人が一様にスマホを見ている状況については確かに異様なものを感じるのは事実です。
この異様さの感覚の源はなんでしょう。
先ほども言ったように、スマホは多機能デバイスですから、みなが同じようにスマホを見つめてると言っても、具体的にやってることは多様でしょう。
しかし、内容の多様さとは別に、「スマホを見ている」ということに伴う共通点もあると思うんですよね。
それはみな「情報を味わってる」ということです。
物理世界においてスマホを観察してみれば、約100㎠程度のツルツルした薄い板にすぎません。ツルツルというのは重要な特徴で、触感としてかなりなめらかで均一であり、ザラザラやデコボコなどの触感に訴えかけてくるノイズが徹底的に排除されている形態です。
触感を排しているただの薄い板に過ぎないスマホになぜみなが引き寄せられるかと言えば、そのモニタに何かしらの情報が映し出されるからです。テキストでもいいですし画像でもいいですし映像でもいいんですけれど、その映し出されたものの静的もしくは動的な表現を摂取しているのがスマホ体験なわけです。(なお、今回は「みながスマホを見つめている」という点に着目してるので音楽やラジオなどの聴覚系の話は置いております)
仮にスマホのバッテリーが上がって、何も表示されなくなったなら、それを手に持ってじっと鑑賞している人はまずいないでしょう。物理的な「モノ」として見た時には、スマホはただ闇しか表示していないし触感もない、非常に地味な存在なのです。
にもかかわらず、ほとんどの人々がスマホに吸着されていることを考えると、それが映し出す「情報」というものがいかに多くの人々を惹きつけているかが分かります。すなわち、ほとんどの人は隙さえあれば「情報」を摂取しようとしている「情報好き」であるとも言えます。
これが冷静に考えるとなかなかすごいことだと思うんですよ。
江草はもともと本を読むのが好きだったのもあって、「情報好き」な自負はあります。だから、その本という媒体がスマホという媒体に移ることはさほど違和感はありませんでした。
ただ、人間って多様なはずだから、みんながみんなこういう「情報好き」であるわけではないと無意識に思っていたところがあるんですね。ところが、今や電車内で繰り広げられてる「スマホいじりが9割」の光景を見せつけられると、意外にも驚くほど多くの人が「情報好き」であったことを認めざるを得なくなったわけです(もしくは「情報好き」になったとも言えます)。
多分、この「みんながみんな情報好きってこともないだろう」という江草の昔からの個人的な暗黙の前提が覆されてるのが、江草がこの「スマホいじりが9割」に対して異様さを感じる理由なのでしょう。
それゆえに、非常に興味深いなとしみじみ思うのです。
で、これだけスマホが映し出す「情報」にみんなの注意が引きつけられているとするならば、その代わりに失われた体験は何であるのか。
それは「感覚」ではないかと思います。
今でも別にできるはずなんですよね。
スマホを見ずにただ窓の向こうを見るとか(地下鉄系だとさすがに退屈でしょうけど)、ただ電車の音を聞くとか、車内の空気の温度や湿度を感じとろうとするとか、自身の体調を感じてみるとか、イスやつり輪の形態や素材感を感じ取ろうとするとか、そういった「感覚」面に注意を向けることは可能です。
多分、スマホがない時代の電車内では少なくない人がそうしてボーッと「感覚」と付き合っていたように思います。しかし、スマホで「情報」を味わえるようになって、そうした「感覚」体験に浸る人が激減した。
現状を評価するに、こういう情勢なんじゃないかと思います。
先ほども言ったように、江草自身もスマホを見てるタイプなもので、これが悪いというわけではないんですよ。
ただ、この100㎠の薄くてツルツルの板を見つめてる時には、同時にこうした世界の触感を味わうことを捨てているとも言えるのではないかと。
なんなら、電車内にも限りませんよね。世の中「歩きスマホ」が問題視されてるように、町中で歩いてる時にさえ人はスマホを見がちです。「歩きスマホ」をせずマナーを保ってる方でさえも、信号待ちやエレベーター待ちなどのちょっとしたタイミングでスマホをいじる人は少なくないでしょう。
そう、100㎠のツルツルした世界に私たちはすぐに吸い寄せられてしまっています。
でも、当たり前のことですが冷静に考えてみれば、世界はその板の外の360度、㎝どころかⅿ、㎞のスケールで広がっているわけです。何十倍、何百倍、何万倍、なんならほぼ無限倍とも言える広大な世界には目を向けず、私たちは100㎠の板ばかり見ている。もちろんそれで得られる「情報」は豊かで膨大です。でも、現実世界の実際の体験として行ってることとしてはかなり狭いところに集中してるのが事実です。
これをほとんどの人が常にしているというのは、やっぱりこれはこれでもったいない気もするんですよね。
その恩恵にあずかってる者として「スマホを捨てよ」とかそんなことまでは思いませんが、私たちの世界を100㎠のコンパクトさに閉じこめてしまわないように、時々は外の世界の感覚を味わうのに時間と意識を使ってもいいかもしれません。
以上、たまたまそういう気分になって、スマホを開かずに電車の光景をしみじみと眺めていて、ふと思ったことでした。
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