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前世代とのコンフリクトにどう対応するべきか

昨日の続き。

昨日の最後の宿題として、先祖崇拝文化および長寿化に起因する世代間コンフリクトを緩和するにはどうしたらいいかという問いが残ってました。

どうしても丸く収まりそうにない大変な難問ですが、結局はそうそう理想的にはいかないということを前置きしておいた上で、何とか食いついてみると、理論的にはいくつかの方向性が考えられると思います。

まずは「先代には目の前から居なくなってもらう」という考え方。居なくなってくれれば、現役世代も先代を恨むことなく、前向きに生きられるかもしれない。

以前「高齢者は集団自決せよ」と言って炎上した有名人がいらっしゃいましたが、これは実はこの「目の前から居なくなってくれ」という意図を究極的に過激な形で表現したものだったと言えます。もちろん、これはさすがに他責志向の暴走と言える、正当化しがたい意見ではあるのですが、方向性としては極致にはこういう展開がある。

ここまで過激でなくとも、職場や社会から前世代が引退して慎ましく暮らしてくれれば、現役世代の怒りも緩和されうるのですが、ご存知の通り、職場でも政治でも高齢の方々がずっと要職を占めているわけです。それも、慎ましくどころか「先祖崇拝」文化にかこつけて、それこそ傲慢に偉そうな態度を取る者も少なくないのが現状です。

以前「45歳定年説」を提唱してこれまた炎上したビジネスパーソンがいましたが、これも「現場(目の前)から居なくなってくれ」というこの方向性の意図を表現したものであったと考えれば、なるほどありえる立場と言えましょう。

しかし、たとえ彼らが現役を退いたとしても(むしろ退いた時こそという側面もありますが)、社会保険の問題が消えるわけではありません。社会保険料の高負担が残ったままであれば、結局は現役世代からすると「目の前の問題」には変わらないわけで、怒りが消えがたいことになります。

なので、社会保険料負担低下の訴え(ひいては社会保険の解体)が世の中で広く生じているわけです。
しかし、必ずしも高齢者の方々が裕福(かつ傲慢)な者ばかりというわけではないですから、それがどこまで正当化できるかは疑問も多いです。実際に社会保険制度の解体が実現したらしたで、新たな問題が生み出されること必至でしょう。


もう一つの方向性は、「存命中はみな平等に現役世代だ」という文化への転換です。これは要するに、現世での「年上は目上」という感覚の否定、「先祖崇拝」文化の解体です。

建前上は一応は「死んだ者は先祖として敬う」という形態で「先祖崇拝」として成り立たせることはできますが、「年上が偉い」という年齢基準の序列基盤を失うと「なんで死んだ途端に偉くなるの?」という素朴な疑問が避けられませんから、だいぶ説得力を弱めてしまう感じがあります。なんだかんだ「先祖崇拝」は「年上が偉い」という感覚とセット販売しないと難しいところがあるように思います(不可能とまでは言えませんが)。

で、生者は平等に現役という考え方は、つまり年齢を理由にした優遇不遇を排除すべきという考え方です。

年功序列はもちろんのこと、定年制度もダメだし、新卒一括採用文化もダメだし、採用時に年齢を尋ねるのもダメだし、だから当然(医学部でしばしば見られるような)年齢を理由にした不採用もダメということになります。

そして何より、年金制度も勝手に人間を年齢を区切った制度なので嫌われる事になります。民間運営で個人が個人の判断で加入する年金保険は個人の自由ですけれど、一律に全員が強制加入となる公的年金制度の思想的支持がなくなります。

年齢で区別せずに平等に年金的なセーフティネットを構築するには、年齢不問で全員に金銭を給付するしかなく、それが結局はベーシックインカムのことになってくるわけですね。

で、薄々お気づきの通り、現行社会のトレンドは既にこの方向性です。
上で書いたのは究極的な状況なので、もちろん現社会はそこまではいってないですが、年金受給年齢を引き上げようとしたり、定年年齢を引き上げようとしたり、年功序列から成果主義にしたり、現役世代を平等に扱い、できる限り人を引退させず生涯現役でいてもらおうという流れがあるのは、まさにこの方向性なんですね。

今の世の中の「先祖崇拝」文化が弱まってるのは、このトレンドと表裏一体な現象に過ぎないとも言えましょう。

しかしまあ、上で便宜上「コンフリクトを緩和するための方向性」と銘打ったものの、ぶっちゃけこれはコンフリクトそのものであるとも言えます。要するに「先祖崇拝」文化に真っ向から反発する流れなので、「戦争を無くすには戦争に完勝するしかない」と言ってしまってるような過激な矛盾をはらんでます。

それに、この方向性は年齢差別がなくなったとしても、自然とメリトクラシー(能力主義)志向に陥り、それに伴う問題も引き起こすことになってきていて、既に「これはこれでユートピアではなさそうだぞ」と皆が気づき始めてる状況です。


あとは、逆に「先祖崇拝」文化をさらに強化するという方向性もあるでしょう。

「年上の者を敬え」という思想を徹底して植え付ければ、反抗する気持ちや文句を言う気持ちも出なくなるというものです。

心の底から先代を崇拝していれば、社会保険料の負担でもなんでも、むしろ喜ぶべき誉れとなるでしょう。何事も捉え方を変えれば充実した気持ちになれるというのは「3人のレンガ職人の寓話」が教えてくれるところですしね。(もちろんこれは皮肉です)

ただ、良くも悪くもそうした「先祖崇拝」的な文化が社会の現状にそぐなわくなってきたからこそ、社会はそれから離脱しつつあるわけで、これを引き戻そうとするとそれはそれで相当に強権的な動きが必要になるでしょう。

それが良い道筋と言えるのかどうか、果たして。


最後におまけ的な方向性を言っておくと、「みんなで悟る」という道もあります。

つまり「かわいそうな私」「悪いアイツ」という感覚にとらわれて互いに恨みつらみをぶつけ合って衝突するのではなく、「みんな仲間だ」的な普遍的共同体感覚を身につけることで、そもそも衝突しようと思わなくなるという方向性です。自然とみんなで分け隔てなく助け合うようになるイメージですね。まあ、みながみな執着を捨てて悟ってる感じです。だから「みんなで悟る」コース。

素晴らしい世界な気はしますが、現実には悲しいことですが、それができたら苦労しないよ的な理想論であるでしょう。

仏教はある意味そういう世界を志向してるところはありますが、彼らは「五劫の擦り切れ」とかやたら長い時間軸スケールで考えてるので、裏を返せば「すぐにはそうはならんよ」と言ってしまってるところがあります。ああ諸行無常(使い方おかしい)。

でもまあ、実現可能性がどうあれ、本当はみんなでこうであったらいいよねと思う方向性としては魅力的ではあろうかなとは思います。だから、この方向性を掲げること自体は江草は応援したいし、支持したいものではあります。意外とそうやって「実現可能かどうか」みたいなせせこましい合理的思考から抜け出た時にこそ何かが急に動き出すかもしれませんしね。


というわけで、我ながら謎な考察してるなと思いますが、一応これでひと段落したといたしましょう。

前記事でも言いましたが、全般パッと思い付いただけの話ですし、特に「先祖崇拝」の文化的定義とか全く検討せずに独自の感覚で勝手に語ってるところがありますんで、そこんとこはご留意いただけると幸いです。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。