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先祖崇拝の意義

先日、この記事で「先祖崇拝」のテーマについて考えてることがあるとほのめかしたまま終わっていました。

今日はその宿題を解消すべく、「先祖崇拝」を話題として取り上げてみたいと思います。

以前、「先祖崇拝の意義」ってもしかしたらこういうところにあるんじゃないかと、ふと思いついたことがあるので、その話を。

といっても、そんな深く厳密な話ではなく、ジャストアイディア、ジャスト思いつきなので、あくまでふと思いついた江草の仮説として軽く聞いてくださいね。


ここでいう「先祖崇拝」というのは、自分をこの世に産み出すに至った先代の血縁者たちを敬う感覚です。地域時代によってその程度は異なるでしょうけれど、多かれ少なかれこうした感覚は広く見られてるものだと思います。ひいては年功序列的な「年上を目上と見る」感覚ともつながります。

そして、現代はこの「先祖崇拝」の感覚が急激に失われてきてる時代とも言われてます。

このトレンドは喜ぶべきことなのか悲しむべきことなのか、何となくぼんやりと考えていた時に、「そもそも先祖崇拝とはなぜゆえにあるのだろう」と思いをはせたわけです。

で、思いついたのは「先祖崇拝とは子孫に前向きに生きさせるためにあるのでは」というものでした。

ご存知の通り、私たちには過去を変えることはできません。過去に起きたことはもうやり直せない。このことがまずあります。

また、現状で何か嫌なこと、不快なこと、不幸なことがあった時、「先祖のせいにする」というのがひとつ便利な選択肢としてあるんですね。自分が生まれて育って来たこの世の中を担当していた前任者の仕事がたるんでいたから、おれたちがこんなに苦労してるんじゃないか。そんな風に前任者(先祖)のせいにすると、現状を説明できるし、何より自分たちの責任でないと言いやすくなります。

これが不当な言いがかりかと言えば、確かにそういう言い過ぎな面もありながら、実際に妥当な面もあるんだと思います。人間というものがどうしても完璧ではない以上、(最善を尽くしたけれどもうまくいかなかったということも含め)失敗もするし愚かなこともしてしまう。これは先祖という人々も例外ではないわけで、先祖の行いを振り返ってみればどうしても何かしらの彼らの落ち度というものは見つかるわけです。

それで、ことさらにそうした先祖(前任者)の落ち度を強調して、「あいつらのせいでひどいめにあっている」と言うことができる。

繰り返しますが、必ず何かの落ち度は見つけられる以上、これが全く間違ってる(理がない)というわけではないのです。しかし、『嫌われる勇気』で説かれてるように、「かわいそうな自分」「悪いあいつ」という感覚にばかりとらわれると、「これからどうするか」という前向きな感覚を持てなくなってしまうんですね。これは心理的にも不幸ですし、現実的にも建設的な営みにつながらないというデメリットがあるでしょう。

ここで効果を発揮したのが「先祖崇拝」なんじゃないかと。

あえて「先祖は偉い」という前提を暗黙のものとすることで、「どれもこれもみな先祖のせいだ」という万能な他責ロジックを封印することにした。それで、現世に生きる人々がもはや変えられない過去にとらわれることなく、「これからどうするか」という前向きな考えに集中できるようにした。

狙ったのか狙ってないのかは分かりませんが、結果的にはこういう意義が「先祖崇拝」にあって、非常に社会の安寧のために良かったので広く支持を集める考え方となっている。

そんな風に思いついたわけです。


では、現代においてこの「先祖崇拝」感覚がなぜ衰退してきているか。

もちろん、色んな可能性があって一概には言えるはずもないのですが、あえて今回の仮説に基づいて見てみると、なんともモヤッとする話が浮き上がってきます。

今回の仮説では「先祖崇拝」は「悪いあいつら(先祖たち)のせいだ」という後ろ向きな感覚を防ぐためのものとしています。しかし、おそらくこの効果が十分に発揮されるには重要な条件があるのです。

それは「その敬う対象たる先祖たちが目の前にいないこと」です。

いわゆる「悪いあいつ」「かわいそうなわたし」の感覚を乗り越えて前向きに生きていたとしても、ふと「悪いあいつ」を目の前に見かけたらウッとなるし、問い詰めたくもなるじゃないですか。

究極的にはその状況でさえ心が乱されないのが理想ではあるものの、それはあくまで理想であって、なかなか凡夫たる一般市民には難しい。できれば「悪いあいつ」に遭遇せずに一定の距離を取れてる方が、「まああの人たちにもいい面もあったよね」「悪気はなかったよね」と心の中で乗り越えやすいところがあるわけです。

これは、昔なら自然に実現していたんですね。
なぜなら、人々が短命であり、現世において先祖たる先代たちが長くは(あるいは多く)目の前にいなかったからです。人間が短命だからこそ、基本的には、具現化した生身の人間としての存在ではなく、抽象的で神秘的な存在として先祖を思い描き、素直に敬い奉ることができた。

ところが、今や、人は長命になって、長く現世に滞在するようになりました。今の若者や働き盛り世代の人たちからすると、上の世代の人たち(先祖たち)が全然目の前で生きて動いているわけです。

これはもちろん喜ばしいことと言うべきですが、こと「先祖崇拝」という文脈においては逆風になってしまったんだと思うんです。

先ほど、人間は完璧でないので、失敗も愚行もすると言いました。これは仕方のないことです。そうした過去は変えられないのであまり過去にとらわれることがないように過去を「良いもの」として理想化して聖域にしておくのが「先祖崇拝」の意義であった。これが今回の仮説です。
しかし、過去にとらわれないようにしようにも目の前でその過去(先祖)が生きて動いているなら、それは現在と紐付いてしまうのですね。

つまり、そうした過去を聖域化する手法である「先祖崇拝」や「年上を敬え」という文化にかまけて、先代の者たちが現に目の前で責任感を感じてなさそうに過ごしているなら、後進の者が「あの落ち度の責任はとらないの?」という反発心を抑えるのは難しくなるわけです。

ここは非常にナーバスなディスカッションになりうるところなので、慎重に言いますけれど、もちろん先代の者たちが「責任感を感じてない」と決めつけることはできません。内情はそんなこともないかもしれない。

でも、「先祖崇拝」すなわち「上の世代を偉いものとする」という文化は、自然と「上の者に落ち度はない」という無謬性を強調する演出になるがために、その責任を問うこと、あるいは自身でその責任を(ほとんど)認めることができないということになります。だから、その内情がどうあれ(つまり本当は責任感を感じていたとしても)、外見的にはそうした責任感を持っていないかのような(持つ必要がないかのような)振るまいになってしまう。これが、先代たちの落ち度に気づいてしまった後進からすると、どうにも目に付く鼻持ちならない態度に映ってしまうわけです。

これが目の前にいなければ普段は忘れて気にせずにいることも容易なのですが、目の前にいてちょいちょい彼らの存在を思い出させてくる状況下にあると、どうしてもその責任を問いたくなってくる。「先祖崇拝」「年功序列」的文化の効果が弱まってしまうのです。


このコンフリクトが顕著に現れてる例が、現代社会のビッグイシューとなってる社会保険の問題でしょう。

日に日に高まる社会保険料負担に怒れる現役世代が増えています。

決して全てではないものの、社会保険は基本的に現役世代が負担して(存命の)前世代が受益するという構造となっています。現役世代にとっては、月々の給与受け取り場面でこの負担が明示されるがために、前世代の存在を定期的に強制的に思い出させてくるリマインダー的なイベントとなっています。

ここで実際に先代に落ち度がなければいいのですけれど、少子高齢化という人口構成のバランスの歪みがこの社会保険高負担の大きな要因のひとつである以上、その落ち度がないと言うのは極めて難しい。今現に生きて活動する人を産み育てておくという営みは、理論的に当然ながら前の世代にしかできないので、完全に前世代の責任だからです。

フォローしておきますと、これは別に前世代が愚かであったとか無能であったとかそういう意味にはなりません。最善を尽くして努力した結果としてこうなってしまったという不可抗力な側面がもちろんあるでしょう。しかし、最善を尽くしたからという理由だけで結果責任が全く問われなくなるとは言えないことも誰もが知っていることのはずです。結果としてそうなってしまったことに対する責任はどうしても浮かび上がってきてしまう。

しかし、そうした落ち度に対する(結果)責任が問われないままに、現役世代に高負担が課され、当の前世代が受益するという構造になっている。忘れようがない美化しようがない現存する問題として常に目の前に「先祖」が居る。ここに現役世代の社会保険に対する納得のいかなさ、ひいては怒りの源があると言えます。

ここで、さらにフォローが必要と思いますが、これはもちろん、現役世代の怒りが必ずしも全て正当化されるということにもなりません。前世代の努力や功績の部分を忘れて、ことさらその落ち度の部分(最善を尽くしたけれども理想的には行かなかった部分)だけ強調して過激な糾弾を叫ぶのも決して妥当ではありません。現にそうした態度を示してる人も少なくなくなってきていますが、それは逆に行き過ぎた責任追及となっていると言えます。

ただ、本稿では、そもそもそうした「前世代に対する責任追及は過度に陥りやすい」という問題の存在を前提として、その問題を防ぐための文化的装置としての「先祖崇拝」の意義を語っていたのでした。だから、その「先祖崇拝」文化が成り立つための重要な要件(目の前にいないこと)が外れたならば、当初の問題(現世代の他責志向の暴走)が立ち現れてしまうという困った事態に陥るのは(この仮説の上では)自然なことなのです。

つまり、まとめると。
長命化した現代社会において、存命の前世代が現役世代の負担を「先祖崇拝」文化の文脈で正当化することは、「目の前に居る」という点で落ち度が目につきやすいがために、難度が高くなっていて、そしてその「外見上の無責任感」が現役世代の怒りを逆なでしてしまってる、ひいては後ろ向きに生きさせてるところがあるのではないか。
このように江草は考えているわけです。


こうなると、「このコンフリクトを緩和するにはどうしたらいいか」、この問いが気になってくるわけですが、ライトに書こうとめっちゃ思いつきで始めたこの話題が意外と盛り上がり過ぎているので(いつものパターンですが)、今日のところは一旦ここまでで終わっておいて、続きは稿を改めてということにいたしましょう。



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