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個人にとって発信することの意義は何にあるのか

昨日の記事で、インプット過多を防ぐために筋肉を動かしてアウトプットすることが大事と言う話をしました。

アウトプット≠発信

ただ、このアウトプットはいわゆる「発信」である必要はありません。
自分のメモ帳に走り書きするもよし、ノートにまとめるもよし、なんなら口に出して独り言としてつぶやくだけでも立派なアウトプットです。何も「これはみんな絶対知っとくべき情報!拡散希望!」とか「万人に俺のすごいアイディアを知らしめるぜ!」などと大上段に構える必要はありません。静かに独りでプライベートな領域で好きな方法でアウトプットするのがまずは基本です。
昨今ではアウトプットと言うと「人に伝える発信」というニュアンスが入ってる雰囲気がありますが、発信はアウトプットの一種ではあっても、アウトプットの全てではありません。

人は発信をする生き物

しかし、人は発信をする生き物です。
古来から文章や発話を用いて人は発信をし続けており、その残された記録の一端が私たちの世界の歴史の貴重な語り部となっています。
そして今や各種SNSでは発信に溢れています。かくいう私、江草自身が綴ってるこの文章もまさしくnoteというプラットフォームを介した発信です。
アウトプット≠発信ではありますが、確かに発信はアウトプットの手段として古今東西で人気のスタイルなのです。

なぜ発信をするのか

ではなぜ人はアウトプットの手段としてわざわざ発信を選ぶのでしょう。
発信することで社会の貴重な知見の1つになるから、というのも確かに大事なポイントです。しかし、そうした社会貢献だけが理由とするとその個人自身にとってはあまり発信を選ぶ意義がないことになってしまいます。

今回もともとインプットアウトプットバランスという個人に焦点を置いた話からはじめたのもあり、あくまで個人という枠組みで発信の意義を考えてみたいです。
個人がインプット過多を避けるためにとりあえずアウトプットしたいだけであれば、自室でチラシの裏にでも書いていればいいのですから(なお、これはこれで十分にアウトプットのひとつのスタイルと言えます)。

それをなぜあえて発信をするのでしょうか。個人にとって発信することの意義は何にあるのでしょうか。

承認欲求

まず身も蓋もない「発信の意義」を指摘するとすれば、「承認欲求」が挙げられます。
自分の考えを人に認めてもらいたい、褒めてもらいたい、賛同してもらいたいという気持ちは人にとってなかなかに根源的な欲求であるようです。この煩悩を断ち切るには相当に悟りを開いた高僧でもないと難しいと聞きます。認めるのはなんとも酌ですが、平々凡々な私たちが発信をするひとつの動機として「承認欲求」があることは否定し難いところです。

人目に晒すことでアウトプットが洗練される

ただ、もう少し前向きな発信理由ももちろんあります。

ひとつは人目に晒すことでアウトプットが洗練される効果です。

プライベートな空間で独りでアウトプットするのも確かに大切なのですが、人間どうしても自分だけだとなあなあで済ませてしまうところがあります。せっかく聞いた貴重な知見を走り書きのまま放置して後から自分でも解読できなくなったり、せっかく思いついた良いアイディアも説明や根拠の記述不足で論理が飛躍していたり。これではせっかくのアウトプットが活きたものになりにくくもったいないです。

しかし、人の目があるとなるとちょっといいところ見せようとして、ある程度はシャキッとするものです。一応は文章の意味が通じるように、一応は説得力があるように整えようとし始めます。
裸で自室でくつろいでいたとしても宅配便のインターホンが鳴ったら急に服を着てそれっぽく整えて荷物を受け取るようなものです。
うれしいことと言うべきか、悲しいことと言うべきか、人目の効果は絶大です。

せっかくのアウトプットをより洗練し、整った形にまとめるのを促す方法として、あえて人目に晒す「発信」は悪くない選択です。

確証バイアスへの対抗(次回に続く?)

次に挙げる発信の意義は「確証バイアスへの対抗」です。


……と、この話を書くには時間が足りなくなったので今日はこのへんで。(こう見えて意外と忙しいんですよ)

次回に続くかもしれないですし、気分が変わったら全く別の話をするかもしれません。(気まぐれ人間なので)

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。