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人は「創作する動物」だからベーシッククリエイターサポートが必要

最近のマンガアプリを開いてみると、凄まじい量のマンガが無料で読めることに気づきます。一つのサービスにおける一覧表示でも全然画面に収まりきらないほど膨大な量なのに、今やマンガ配信サービスは一つどころか群雄割拠でひしめきあってる有様ですから、総合するとほんと天文学的な数のマンガ作品が日々創出されてると言えるでしょう。

江草は(絶望的な画力ゆえ)マンガを描いたことはないので実感として知ってるわけではないですが、マンガを描くのは相当な作業量が要るはずです。そんなマンガたちが世の中でこれほどまで溢れているということは、いかにマンガを描きたい人たちが多いか思い知らされます。

同様のことは、マンガに限りません。

YouTubeでも大量の動画が日々投稿されていますし、ここnoteでも無数の記事が毎日登場しています(まあ、ご存知の通り江草自身もこのnoteの記事の山に貢献しているのですが)。

つまり、人々は全くもって恐るべき量の作品を創出して世に出しているわけです。この事態は人の持つ創作意欲の強力さを如実に表していると言えましょう。

人はまさしく創作する動物クリエイターであるのです。


しかし、これだけ無数の量の作品が日々生まれるとなると、自然な成り行きとして、鑑賞する側の消化量が追いつかないということにつながります。だからもちろん、「見てもらう競争」「読んでもらう競争」は必然厳しいものになります。マンガアプリでかなりの量の作品が「無料」で配信されてることを見ても、いかに「見てもらうハードルを下げるか」の競争が極限にまで至ってるかが伝わってくるようです。

もはや無料で見てもらうまで至るレベルの競争ですから、当然、「創作作品でお金を得ること」すなわち「お金を稼ぐこと」は絶望的な難易度となります。創作でお金を稼げるのはごく一部の運と実力に恵まれた者たちだけで、ほとんどの人は全く稼げないか、なんなら宣伝代や逸失利益を考えるとマイナスになってるのが現実でしょう。

人の「創作したい」という意欲があまりに強いにもかかわらず、それでは生計を立てることができない。でも「創作したい」。そんな悲しい現状が感じられます。


して、ここで押さえておきたい大事なポイントは、「お金を稼げないこと」=「価値がないこと」ではないという点です。往々にして勘違いされてるのですが、「お金が稼げてる(高い値がついている)から価値がある」とか「お金が稼げない(安い値がついている)から価値がない」という認識は誤りです。

だから、もはや無料レベルで世の中に大量に作品がばら撒かれてるからといって、それらに価値がないとは言えないわけです。

価格というのは結局のところ「相対的で主観的な希少価値」で決まっています。あくまで「絶対的で客観的な固有の価値」ではない。このことが重要です。しかしながら、困ったことに、この点が広く誤解されてるために、世の中で多数の矛盾が生じています。

別に特段変わったことを言っているわけではありません。たとえば、酸素は私たちの生存に欠かせない、客観的に見て明らかに絶対的価値が有る物質です。しかし、酸素が空気中に無尽蔵なほど多量に存在しているために、すなわち、希少ではないからこそ、私たちは無料で酸素をいただくことができているわけです。

一方で、たとえば、ダイヤモンドは私たちの生存に全く必要がない物質ですが、多くの人がそれを「美しい」と主観的に感じるということと、世界において微量しか存在しないという希少性によって、大変高額の値段がついているわけです。

この「ダイヤモンドのパラドックス」の話は、普通に経済学の入門書でも載ってるぐらい当たり前の常識的な話です。なのに価格を「絶対的価値を表してる」かのように扱ってしまっている社会の空気の方が、よほど常識はずれの誤りなのですね。


さて、今や無数に溢れかえってる創作物たちは、希少性皆無だからこそ、価格としては基本無料になってしまってはいます。しかしながら、だからと言って必ずしもそれらに絶対的価値がないわけではないのです。もちろん、玉石混交な側面は否定できませんが、それでも「無料だから無価値」というわけではないことは改めて確認しておきたいところです。

たとえば、昨日ちょうど紹介した『成瀬は天下を取りにいく』という小説。もともとは作者の宮島未奈氏が文学賞に投稿したのがきっかけなんだとか。

確かにブレイクした現在ではお金は入ってきてるとは思いますが、投稿当初は全くの無報酬で創出された作品であったわけです。江草も感銘を受けたあれほどの優れた作品が、もし文学賞を落選していたならば、全然日の目を見なかったし、報酬も一切得られなかったかもしれないことを考えるとなかなかに運命の恐ろしさを感じます。

なにせ、宮島氏の作品が受賞したことにより、受賞できなかった誰かの作品が必ずあるはずです。その作品が宮島氏の作品に引けを取らない素晴らしい作品であったのにタッチの差で落選してしまっていた可能性もあるでしょう。

つまり、こと創作界隈においては、価格がついたかどうかや、お金が得られたかどうかは、作品の本質的な価値を反映しているとは言えないわけです。「文学賞受賞」のような「相対的な希少価値」を示すタグがついてこそ、ようやく値段がつき、市場に投入してもらえる。そういう世界なんですね。


で、先ほども述べたように、人が本質的に「創作する動物クリエイター」であるならば、「創作すること」はある意味で「酸素を吸うこと」のように人にとって重要で必須の行為と見ることができるのではないでしょうか。確かにもちろん「酸素を吸う」に比べると生存上での必須性は劣るとは思います。しかし「創作すること」はその必須性が一見劣るからこそ「そんなお金にならないことやってないで働くなり生産的なことをしろ」と蔑ろにされてるきらいがあります。

さっき例に挙げたダイヤモンドだって生存の上で必須ではないのに人気という意味では同じではあるのですが、人気があるのは「それが希少だから」でしょう。ダイヤモンドが酸素や水のように世の中に溢れかえっていたら、さほど人々に求められていたかは疑問があります。

一方で「創作」は違います。世の中にこれだけ無数に溢れかえってるにもかかわらず、それでもなお人々は創作を止めず作品を世に出し続けているのです。溢れかえっていても、報酬がなくても、それでも創作することを求めてしまう。これぞ、人にとって創作には本質的に絶対的な価値が有ることの証左ではないでしょうか。


しかしながら、これだけ溢れかえってる現状だと、良くも悪くも創作にはほとんど市場価値がつきません。となると、創作で生計が立てられない。そして、「お金を稼げる行為こそが価値ある行為」と誤解されてる世の中においては社会的にも「創作」が卑下されることにもつながっています。

結果、生計を立てるために働かないといけなくって創作どころではないとか、世間の目を恐れて堂々と創作行為に励みにくいなどという理由で、「創作したい」という欲を人々が抑え込んでしまってるのではないか、そういう恐れを江草は抱いているのです。

「酸素を吸うこと」に迫るほどに人間にとって重要な「創作すること」を、そうして抑圧しないといけないことは、非常に悲しいことではないでしょうか。

この悲しみを緩和することは市場原理では困難です。なぜなら、先に解説した通り、市場では「相対的で主観的な希少価値」にばかり値段が付く偏りがあるからです。

従って、人々の「創作したい」という絶対的価値を支えるには、市場外でのアプローチが必須となります。

ここnoteでのサポートシステムやメンバーシップシステムも、「作品の対価として金銭支援をする」という市場原理を打ち破る発想につながるものではありますが、まだまだ基本的には市場原理がベースにあるところから脱却できていません。実際、多くのクリエイターは「お金を払ったらここから先が読めますよ」という市場原理的形式をとっています。

だから、最終的には(いつもの如くの結論ではあるのですが)社会規模でのベーシックインカムの創設が必要となってくるのでしょう。

全員が十分に生計が立てられるほどのベーシックインカムの創設はもちろんより難しいと思いますが、誰もが「創作してもいいんだ」と金銭的にも社会空気的にも許されてると感じさせるぐらいの規模とビジョンを伴ったベーシックインカム(ベーシッククリエイターサポート)は、せめてなんとか実現できないものかなあと思います。


世の中に無数に作品が多すぎて、残念ながら江草の目では全てを鑑賞することはできませんが、全ての作品とクリエイターの方々の存在に感謝と敬意の気持ちを込めて、ちょっとこうした提言を書いてみました。

江草の場合は、日々こういう論考を発信するのが、江草なりの創作活動なわけです。

まあ、ほんと、創作は楽しいですね。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。