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エビデンスの持ち腐れ
エビデンス主義全盛の世の中において、データや典拠を付与する言説は当たり前のようになってきました。
江草がなんとなく手に取る書籍でも、これでもかと"[2]"みたいな脚注記号がそこかしこに施されてることが多いですね。もちろん、きっちりした学術書はもともとそうだったと思いますが、昨今では比較的ライトな書籍でも参照をしっかり書くようになったということです。
これ自体はとても良いことだと思ってます。やっぱり論拠が不明な言説はどうしても信頼性に欠いて、説得力を落としてしまいますからね。論拠がはっきりしてるもの(必要なもの)はきっちりそれを提示するというのは、良い流れだと思います。
ただ、だからこそ感じるのは「エビデンスを用意してるのはいいんだけどディスカッションが雑」みたいな言説のもったいなさです。
いわゆるIMRAD形式で言うところのResults(結果)の提示はすごく豪華で潤沢なんだけれど、そのResultsから導き出されるDiscussion(考察)が浅薄というか独善的だったりすると、どうにも残念に思ってしまうのです。
砕いた表現で言うと「え、そのデータから言えることの解釈がそれ?」と困ってしまうケースがしばしばあるんですね。
エビデンス主義全盛で「エビデンス」が付与されることが多くなったからこそディスカッションの粗さが目立ちやすいのかなと。
実際、エビデンスの存在にばかりこだわる時に、ディスカッションは見落とされやすい要素ではないかと思うんですね。「良いエビデンスがあれば良い」わけではなくって、良いエビデンスに良いディスカッションを伴ってこそ良い論考が完成するのです。あるいは「エビデンスがたくさんあればあるほど良い」でもありません。
とはいえ別に特定の言説を叩きたいわけではないので、特定の言説を具体例としては提示しません。ここではこうしたケースが(あくまで主観的にですが)増えてきたという一般論(ぼやき)を書くにとどめたいと思います。
だから、あえて具体例を出さずに抽象的な話でこの問題の構造を描き出そうというアクロバティックな試みをここからしてみます。(チャレンジングだなあ)
とはいえ、「いくらエビデンスがあってもディスカッションが雑だと意味がない」というのは、実のところみんなよく知ってるはずの話なんですよ。
みなが知っていてこの現象が端的に表れてるそれは何かと言えば、ミステリー作品です。
ミステリーと言えば、小説、漫画、映画にドラマと、完全に大衆に受け入れられてると言える一大ジャンルですよね。現代人なら誰もが必ず味わったことがあるはずです。
で、コナン君しかり、ミステリーで出てくる探偵役はちょっとした物事を敏感に察知してきっちりロジックを詰めていきますでしょ。まずささいなエビデンス(証拠)を見逃さないのもさることながら、そのエビデンスから言えることを最大限に引き出す洞察力、考察力、論理的思考が半端ないわけです。
かたや探偵役でない、ただ現場に居合わせただけのモブな登場人物たちは、探偵と同じ物(エビデンス)を見ているはずなのに、「それがどうかしたのか?」と何も感じてなかったり、「絶対○○が犯人に違いない!」と拙速に決めつけたり、言ってしまえばエビデンスを有効活用してない愚かな言動をするのが定番の展開です。
でも、そんな彼らも、ひとたび探偵役に「これがどういう意味か分かりませんか?……つまりかくかくしかじかでこういうことを指し示しているんですよ!」と説明されると、「あっ!」と一同驚愕して納得しますでしょ。なんなら読者や視聴者も「あーー、そういうことだったのか」と腹落ちします。
つまり、ちゃんと順を追って丁寧に考察しさえすれば、みんなが納得できるロジックが本来はそこに隠れているというわけです。にもかかわらず、エビデンスを表面だけなぞって深く吟味しないと、ミステリー作品に出るモブキャラのように明後日の決めつけをしてしまうと。
この明暗を分けているのは、あくまでエビデンスの有無ではなくって、エビデンスに対してどれだけしっかりと丁寧なディスカッションを施しているかなんですよね。同じ物を見ていてもディスカッションが伴わないと意味がないのです。
すなわち、ディスカッションが伴わないなら、いくら良いエビデンスが大量にあっても、それは「エビデンスの持ち腐れ」と言うべきもったいない状況に陥るのです。
また、加えてミステリー作品から得られる教訓は、良いディスカッションがあれば必ずしもエビデンスを無闇矢鱈に集めなくてもいいということもあります。
論文でもよく"Further investigation is needed."みたいな定型句が出てきますけれど、ちょっと意地悪なことを言うと「じゃあどこまでエビデンスが集まったら十分なの?我々はいつまでエビデンス探してるの?」とも思ってしまうんですよね。なんつーか、いつまでもヒントを欲しがって回答しないクイズの回答者みたいな感じがある。
もちろん、十分に考えた結果であればそれも仕方ないのですけれど、中には申し訳ないのですが「え、本当に考えたの?」みたいなのも残念ながらしばしばあるわけです。
つまり、こうしたいつまでもエビデンスを求め続ける姿勢には、決定的な証拠が出てこない限り結局決断(判断)しないんでしょ感があるんですね。
ミステリー作品で探偵役がいなければ、なんかもう「犯人がまさに犯行を行ってる現場の監視カメラの映像」みたいな決定的な証拠でも出てこない限り解決しなさそうじゃないですか。でも、ハナからそんなのがあったらミステリーになりませんよね。それをいつまでも求めるのは無い物ねだりなのです。
そりゃ、良いエビデンスがいっぱいあったらありがたいですけれど、私たちはどうしたって限られたエビデンスの中で、最大限にそこから得られる知見を引き出さないといけない時がある。いつまでもエビデンスを探し続けていてもしょうがない場面があるわけです。
で、そういう時にこそ大事なのはエビデンスをしっかりディスカッションすることでしょう。限られたエビデンスを最大限活かす。
それはただ大量に引用を付けて「エビデンスに基づいてますよ」感を演出することではなく、ミステリー作品の探偵たちのように本質的な点でエビデンスの意味するところを目ざとく見破ることです。
名探偵は、「さっさと事件を解決したいから」と犯人がねつ造したダイイングメッセージを浅慮にそのまま鵜呑みにしたりとか、「犯人はこいつに違いない」と決めてかかっていったりとかしないでしょ。真相は一体なんなんだとじっくりエビデンスに向かいこんで考える(ディスカッション)ことが名探偵の名探偵たるゆえんです。
なので、エビデンスを集めてるのは良いんだけれど、そのディスカッションがいかにも粗いものを見ると、明後日の方向の推理をするミステリー作品のモブキャラたちを見ているようで、ちょっと落ち着かなく思ってしまうのです。
……とまあ、そんな感じで江草もご高説を垂れてしまっていますが、そういう本人こそどうなんだというところですよね。
うむ、確かに。
だいたい本稿に至ってはエビデンスすら出してないですし。
なんかミステリー作品で探偵に対抗しようとしてそれっぽい理屈を語って2番目ぐらいに犯人に殺されちゃう役回りの人とかたまにいますが、あんまり自分のことを棚に上げて偉そうなこと言ってると、江草もアレになっちゃってるかもしれません。
気をつけます😅
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