見出し画像

人生をよく噛んで食べる

子どもとお出かけをしていると、ほんと思いもよらない物をパッと見つけてくるから驚かされます。

子どもが「あ、アンパンマンだー!」と突然叫ぶのだけれど、大人は「え、どこどこ?」としばらくキョロキョロ。遠くの店先に掛けてある商品にアンパンマンが居ることに気づくまでにだいぶ時間がかかります。

アンパンマン以外にも、道ばたでアリが歩いてるのを見つけたり、花が咲いてるのを見つけたり。大人が普段、完全にスルーしていて存在を認識してないものを子どもはちゃんと認識できているのです。

これはもちろん、本当にそれらが子どもにだけ見えていて、大人には見えていないわけではありません。大人も本当は視野の中にそれらをとらえてはいるけれど、あたかもただの舞台背景のように存在認識に値しないものとして埋没させている。見えてるけど見えてない。これが実際でしょう。

たとえば、アンパンマンのイラストが載ってる商品が文具店でディスプレイされてるという光景も、大人からすると「何かのお店に何かの商品が陳列されてる」ぐらいに抽象化されてしまっている。下手をするともはや「店」とさえ認識してないかもしれません。厳密には見えてると言えば見えてるのだけど、度が合ってないメガネをかけているかのようにあまりにボンヤリとしか見えてない。だから、そこにあるアンパンマンの存在に気づけない。

子どもは逆に「何かのお店」とか「何かの商品」みたいに抽象的には世界を見ていないのでしょう。「お店」や「商品」なんていう広いくくりではなく、目の前ある様々な物をそのまま様々な物として認識で受け取っている。何がそこにあるかをそのままマジマジと見つめている。その具体性にひたすら真剣に注目している。

言ってみれば、大人は世界から受け取る感覚情報を抽象的概念によって圧縮することで省力化してるんですね。他方、子どもは世界から受け取る感覚情報をそのまま全部まるごとそのまま咀嚼していると。膨大な情報量を膨大なまま処理しようとしている。

まあ、子どもに比べると悲しいかな大人は老いてしまっていて、スタミナや処理能力の限界のためにどうしても省力化したくなるというのが現実なのかもしれません。仕方ないところもある。

ただ、その省力化の過程で、見えてるはずのものが見えなくなってるという事実は意識はしておいたほうがいいでしょう。別に省力化しなくていい時にまで省力化してしまって世界を全く味わえなくなってしまってるかもしれませんから。

「咀嚼」とか「味わう」というワードが出てきたのでちょうどいいのですが、これはまさに「よく噛んで食べる」ということなんだと思うんですね。

現代人は忙しいのが常態と化しています。実際にスケジュールに追われてる時ならいざしらず、別に追われてもない時にまでついつい急いでしまう。

医師もね、ほんと食べるの早い人が多いんですよ。病院でスキマ時間に食べてる時だけでなく、オフの場面で食べる時でもあっちゅう間に食べ尽くす人は少なくありません。これはもう仕事が忙しいせいで早く食べるのが癖になってるんですね。

でも、オフの時にまでそうして何かに追われるように早く食べるのはもったいないじゃないですか。せめてそういう時にはしっかりよく噛んで食べることを意識したい。そうでないと、その料理を味わえてるとは言えないでしょう。

これは食事に限らずそうなんだと思うんですね。

すなわち、見えてるはずのものが見えなくなってる時、人は「世界を噛まずに足早に飲み込んでる」んです。世界を受け取るための時間や労力を省いている。

緑内障の患者さんなんか実際そうらしいんですが、視野が狭くなってることって本人は意外と気づかないものなんですね。自分にとって見えてる範囲が見えてるから「自分は見えてる」と錯覚してしまう。検査をしてようやく視野が狭くなってる現実に驚くのです。

子どもがすぐさま通りすがりのアンパンマンに気づくことで、自分がいかに見えなくなっているかに驚かされる大人も同じでしょう。子どもに指摘されないと、自分の世界認識が狭まってることに気づけない。自分がいかに世界を抽象的にとらえてぼんやりとしか見てないか、よく噛まずに飲み込んでるかを思い知らされるわけです。

もちろん、そんな風に精緻に世界を観察することはどうしても子どもにはかなわないかもしれません。でも、それでももうちょっと私たち大人も世界をよく噛んで食べても良いのではないでしょうか。

普段気にも止めてないものにも気づけるように注意を払う。私たちが日々通り過ぎるその場その場も、決して本来は「街」なんて抽象的なものではないし「道」なんて抽象的なものではありません。そしてまた通りすがる人たちも全ての人に固有の人生と性格と名前があるのです。本来「人々」でひとくくりにはできないぐらいに多様で具体的な方々と本当は私たちは遭遇してるはずです。

こうして日々遭遇する世界をよく噛んで食べるというのは、すなわち人生のその時その時を味わって楽しむことでもあります。なぜならこの世界に現に生きて存在していることが人生だからです。

「世界をよく噛んで食べない」だとその恐ろしさはあまり伝わらないかもしれませんが、「人生をよく噛んで食べてない」だとなんかヤベえ状態だって伝わるんじゃないでしょうか。

だから、人生をよく噛んで食べましょう。

子どもは毎日全力で人生を味わって生きてるから、その姿を教師として大人は人生を味わって生きることの大切さを思い出させてもらえるのです。


もっとも、子どもはなかなか現実の食べ物の方はよく噛んで食べてくれませんが……。なんでそんなに慌ててご飯を口に詰め込むのじゃ、おぬし。(最後の最後に本稿の説得力を失うコメントをわざわざ入れてしまいましたね、てへぺろ)

この記事が参加している募集

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。