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出生数を1人増やすのに1〜2億円かかるのはコスパが悪いのか?

先日、少子化対策の財源についての記事を見かけました。

経済学者の島澤諭氏による論考です。

少子化対策の財源を医療保険料の増額で確保することを批判し、その財源はむしろ高齢者に回ってるお金の方を医療費の自己負担割合を3割に上げるなどして対応すべきだとしています。

こうした現状の社会保障制度が高齢者優遇であるとして、その高齢者優遇体質を改善すべきという意見は昨今勢いを増している主張です。

確かに、現役世代が社会保険料負担の拡大にあえぐ中、当然出てくる立場であると思いますし、高齢者の負担をどうすべきかは今後の社会のあり方を考える上で非常に重要な議論であると思います。


ただ、今回とりあげたいのはこの記事のそうした大筋の議論ではなく、島澤氏がふと漏らした「少子化対策のコスパ感覚」のところです。

具体的にはこの箇所ですね。

この資料は、少子化対策に使う金額が先進国並みに増えれば自動的に出生数が増えると言っているに等しい、全く意味のない資料ではありますが、それでも敢えて意味を見出すとすれば、出生数を一人増やすのに、約1億円から2億円かかるという酷いコスパ状況だけです。

太字は原文ママ

こちらで要約すれば、島澤氏は少子化対策において出生数増加効果が1人あたり1〜2億円かかるのはコスパが悪いと主張していると言えます。

しかし、江草はこの評価は妥当ではないと考えます。むしろ、出生数を増やすには当然それぐらいかかるでしょうと思います。

このコスパ感覚がそもそもからして誤っていれば、当然少子化対策が功を奏すことも難しいと考えられますから、これは非常に大事な論点でしょう。

そこで今回はこの「出生数増加に1人あたり1〜2億円かかるのは高いのか」を考えていきたいと思います。


別に、江草はここで「子供は人類の宝だ」とか「子供は可愛いから絶対産んだ方がいいよ」とか「神から授かった日本国を滅ぼしてはならん」みたいなエモーショナルな話をしようとしているわけではありません(そういうウェットな側面からのアプローチも大事だと思いますし、やろうと思えばできますが今回はあえて触れないということです)。

そうではなく、ここでは経済性とか市場の利益とか、経済学者こそが好むであろうドライで合理的な視点から「少子化対策のコスパ」を見るつもりです。そうしたドライな視点であっても(後述しますがむしろそうしたドライな視点だからこそ)「少子化対策にはそれぐらいかかると考えるべき」という主張をしていきます。


さて、本題に入ります。

まず、少子化対策として出生数を増やす効果を得るには、合理的経済人(ホモ・エコノミクス)を想定する素朴な経済学的な視点でいうと、子供を産むことに十分な金銭的インセンティブが必要になりますよね。ドライなホモ・エコノミクスさんは出産という行為を選好するにあたって損得計算をするわけです。

ここで問題になるのが出産や育児に伴うキャリアの中断です。巷でも広くキャリアアップと育児の両立が大きなジレンマとしてとらえられてることから分かるように、やはり出産や育児によるキャリア中断は金銭的デメリットを生じます。

では、それは一体どれぐらいの規模感でしょうか。

この疑問に端的に答えてる書籍があります。橘玲氏の『専業主婦は2億円損をする』です。

橘氏は、仮に女性が働くことをやめて専業主婦になる、すなわちキャリアを完全に捨てたとすると、2億円相当の逸失利益があるよということを指摘しています。

知ってる人は知ってる通り、橘玲氏はリバタリアン気質で投資の戦略などもガンガン著している市場原理主義と経済的合理性の権化みたいな方です。その橘氏が、ドライな計算に基づいて専業主婦の逸失利益は2億円であると言っているわけです。

もちろん、これは完全にキャリアを絶った専業主婦の場合という最も極端な例ではあります。ただ、この時点ですでに2億円という「億」の単位の金額のオーダーが出ていることは無視できないところでしょう。

仮に現在働いているすごくドライなホモ・エコノミクスさんに対して仕事をやめて育児家事に専念することを求めるなら「じゃあその対価として2億円ください」と言われても仕方がないということになるのですから。

従って、キャリアの損失は最大でそれぐらいの規模感になるというこのドライな指摘を見ても、特に根拠の説明もなく「子供1人増やすのに1〜2億円は高すぎる」としてしまうのは、直感的に反射的にこぼしてしまっただけではないかと疑わざるを得ない、相当に早計な評価であると言えます。

(もっとも、別に橘氏に指摘されずとも、一般的に生涯年収が2億円〜3億円とされてるわけですから、キャリア途絶の逸失利益がそのオーダーの金額になることは奇妙でもなんでもないとも言えます)


なお、保育園やベビーシッターなどのサポートにより親がキャリアを諦めなくすれば2億円も逸失利益は出ないのではないかという疑問はあるでしょう。実際の少子化対策もそういう社会的サポートによって働く親がキャリアを中断せずに済むようにという戦略で動いていますしね。

ただ、これは結局は子供を育てる役割の人が親から保育士に代わっただけで、社会で誰かがその役割を果たしていることには変わりがありません。それはそれで、その役割を担ってくれる施設や職員たちに社会が金銭的サポートを行わないといけないのです。

だから、保育園やベビーシッターなどのサービスを増強すれば、確かにキャリアを諦めるホモ・エコノミクス親御さんに対価として2億円も支払う必要はなくなるでしょう。しかし、ホモ・エコノミクスさんがキャリアを諦めなくて済むようにする社会的サポートの方に金銭を拠出する必要が新たに生じます。

そして、もしも保育に携わる施設や職員の方々が同様にドライな利得計算をするホモ・エコノミクスさんであれば、結局は億相当の報酬を要求することになるでしょう。なぜなら、それ相応の報酬が保育業に従事した場合にもらえないのだとしたら、数億円の生涯年収が見込める他の(キャリアアップできる系の)仕事に就こうとするからです。だって、そっちの方が金銭的に得なんですから。合理的に考えて。

というわけで、保育園やベビーシッターなどで働く親をサポートするという少子化対策戦略であっても、結局は「働く親」に拠出すべき金銭的サポートを「保育業界」に拠出することになるだけで、同程度のお金が必要なことには変わりありません。

もちろん、子供を集団で見守ることによる効率性の向上や、専門職としての能力の高さの効果によって、親が家庭で直接自身の子を育てるよりも、コスパが良くなる可能性はありえます。しかし、育児という活動の労働集約的な特性を考えれば、それでもなおそのコストが億単位のオーダーから下がる保証は全くありません。

だから、やっぱり「子供1人に1〜2億円かかるは高すぎる」というのは早計でナンセンスなコスパ感覚なのです。


でも、多くの人にとって育児にそんなにお金がかかるイメージがないというのは実際のところかと思います。

現状なぜそんなにかからないはずだと感じるのかといえば、つまるところみんな損得計算だけで生きるドライなホモ・エコノミクスさんではないからです。

ほんと言えば2億円欲しいところなのに、出産や育児には金銭には代えられない価値があると経済的に非合理な判断をしてくれてるから、そのコストが抑えられているだけなのです。

皮肉なことですが、皆がウェットな気持ちを抱いてくれてるからこそ経済学的なコスパがよく保たれているのです。

でも、そこに「子ども1人に1〜2億円は高すぎる」という不躾な経済学的な論理が投げ込まれたらどうでしょう。突然「お前たちのやってることにはそんな金銭的価値はないのだ」と言われたような無礼を感じるはずです。「なるほど、ならば経済学者様がそういう論点で評価するなら今まで要求しないでおいてあげた我々の活動の対価をちゃんと払ってくださいよ」と反感を持たれてもおかしくはありません。

そして現にそうなってるのが今なんですよね。

正確に言えば、あからさまに「対価を払ってくれ」と要求してるわけではなく、皆が経済合理的判断に基づいて出産育児という活動から離れていってる状態です。子供を産んだらキャリア中断の逸失利益が大きいから控えよう、保育士は待遇が悪くて逸失利益が大きいから避けよう、と。

そうした短絡的な経済合理性の損得計算の論理が世の中を侵食しつつある。だからこそ、今、少子化になっているんです。そして、そうした経済合理性の論理が優勢になった社会において少子化対策をするならば、計算すればするほどやっぱり「億単位の金がいる」というわけです。

ゆえに、島澤氏が「コスパ」というまさしく経済合理的な観点を用いておいて、「子ども1人に1〜2億円のコストは高すぎる」としてしまってるのは、経済学的なドライな観点からして端的に言って矛盾した発言なのです。

申し訳ないですが、子どもにはそれぐらいかかるんですよ。


そして、もう一つ指摘したいのは「子どもを増やすこと」をコストの面からだけで考えるなということです。

「子ども1人に1〜2億円出すのはコスパが酷すぎる」と言う時、当然考えねばならないはずの要素があります。それはコストとベネフィットです。この二つの要素を比較しないとコストパフォーマンスは考えられるはずはありません。しかし、今回の島澤氏の発言は「子どもが増えること」のベネフィットの方を考えた形跡がありません。

いや、ほんと言うと全く触れてないわけではないのですが、「国難を防ぐためだろうか」とか「日本人の絶滅を防ぐためだろうか」とか「社会保障の延命のためだろう」とか、それこそウェットな話ばかりしていて、肝心要の経済学的なドライなベネフィット考察を欠いています。

本稿ではあえて経済合理性に基づくドライな視点で少子化対策を見ることに徹していますから、ここでもその視点で指摘をさせていただきます。

結論を述べますと、子どもが増えることは市場経済の維持拡大を図る上で必要不可欠な現象であり、それゆえに大きなベネフィットが存在しています。だから1〜2億円のコストを投じるにふさわしい可能性は十分にありえると考えられます。

つまり、他でもない市場経済のためにこそ、子どもを増やさないといけないのです。これ以上の簡潔明快な経済合理的ロジックはないでしょう?


釈迦に説法すぎる話ですが、人というのは消費者であったり労働者であったり、経済活動の参加者として市場経済において大きな役割を果たしています。そもそも人が誰もいなければ経済活動は生じ得ません。それゆえに、市場に参加する人間が継続的に供給されなければ、その結末は必然的に市場経済の崩壊、縮小となるわけです。

そうなれば、企業の利益も株主の利益も、従業員の利益も、当然ながら縮小していきます。したがって長期的な経済合理性の観点からして、市場経済の維持のために新たな参加者の供給を維持することは必要不可欠な課題であると言えます。

それに必要なコストの計算は容易ではありませんが、それでも将来の市場縮小が予想されている時にそれを防ぐための相応のコストを支払う必要はあると言えるでしょう。

そして、子どもというのは成長してまた次の世代の子どもを産み育てる再生産能力を有していますから、1世代だけにとどまらない極めて長期的な経済効果を発揮する存在です。

最近でも、ごく短期間飾られるだけの完全に一過性の経済効果しかない大阪万博の木造のリングに350億円が投じられることが報じられて議論を呼んでいますが、そんな350億円のリングと比較して、超長期的に経済効果を発揮するであろう子どもに対して1億円払うのはよほど経済効果としてもコスパがいいとさえ考えられます。

実際、こうした市場経済の維持拡大を意識することの重要性は『GROW THE PIE』という書籍でも強く指摘されているところです。

この本はファイナンスの教授らが著している、とても骨太な書籍です。パラパラとめくってもらえれば分かりますが、徹頭徹尾、論理的で合理的なスタンスで進められてる論考です。要するにちゃんとドライなのです。

そんなドライな書籍が主張しているのが、「社会にとって良いことをすること(パイを拡大すること)が結局は長期的な経済的な利益を生むのだ」というメッセージです。あくまで「社会にとって良いことをしよう」とかいうウェットでエモーショナルな話ではなくって、「そうする方が利益になる」と最終的にちゃんと経済合理性の論理に立っているのです。

これはすなわち、「パイの切り分け(ゼロサムゲーム)」の観点で短期的利益を奪い合うような、昨今の目に余るビジネスや経済観に対する警鐘です。他社から顧客を奪うためにと街路樹に除草剤を撒いた企業までありましたからね。

つまり、ビジネスはそんな目先の利益の追求ではなく「どうやったらパイを拡大できるか」を考えなさいと。それが社会だけでなく、結局は従業員、経営者、そして株主にとってさえも利益拡大につながる道なのだということです。

そして同時にこの書籍では、こうした「社会にとって良いこと(社会的価値)」は、ベネフィットが具体的には計算しにくく、効果を発揮するか不確実性も伴いやすく、そして成果が得られるまでの時間的距離が遠いという難しさがあることも指摘しています。そんなややこしい特性があるからこそ放置されやすい。

しかし、「社会的価値の拡大」の扱いが難しいことは、それを軽視していい理由にはなりません。

特に少子化については、むしろその問題や弊害が明らかになってる方といえます。現に人口が減ってきていることが数字に表れているし、それが続けば市場経済(パイ)が縮小することも明らかです。

それを「ベネフィットが分かりにくいから」とか「1人あたり1〜2億円なんて直感的に高いから」などという理由で放置するのはそれこそ経済合理性に反する態度と言えるでしょう。

従って、子どもが市場経済維持に果たす大きな役割を考えれば、「子どもに1〜2億円は酷いコスパだ」などと即断することは決してできないはずなのです。


なお、人口減少による市場縮小の問題については移民を呼び寄せればいいという意見も多くあります。島澤氏の論考もそうした立場であるような素振りがあります。

短期的には移民受け入れ拡大は確かに有効となりうる戦略ではあると思いますし、検討しても良いとは思うのですが、忘れてはいけないのは、人口減少や少子高齢化は何も日本だけでなく世界規模の問題であるということです。

単に日本が先駆けて少子化問題に直面しているだけで他の国もゆくゆくは同じく少子化になるのであれば、移民が市場に継続的に供給されると考えることこそ、長期的目線を欠いた付け焼き刃で泥縄式な戦略と言えるでしょう。

移民のことを考慮に入れたとしても、結局は少子化対策で市場経済の維持拡大を企図しないといけないことには変わりがないのです。



では、そろそろまとめましょう。

今回は「子ども1人につき1〜2億円かかるのは本当にコスパが悪いと言えるのか」について論じてみました。それも、あえてドライな経済合理性の視点から見ることにこだわってです。

結論としては、キャリア中断による逸失利益の大きさを考えるとミクロ面からして子どもに1〜2億円かかるのは特に不思議でもないし、市場経済の維持拡大というマクロ面からしても子どもにそれだけのコストをかけて投資するのは長期目線で十分に経済合理的な判断となりうる、というところになります。

だから「子ども1人につき1〜2億円は酷いコスパだ」というのは妥当ではない早計な評価であるというのが江草の主張です。


もっとも、この結論は現在の社会保険料負担をめぐる議論を否定するものではありません。社会保険料の負担の上昇が現役世代にとって大きな問題になっていることは事実であると思います。

だから、今回の「これだけ子どもにかかるのは当然だ」という結論をもって、社会保障の問題を矮小化しようとする意図は全くありません。むしろ、江草としては逆に「社会保障の問題を矮小化するな」と言ってるぐらいのつもりです。

なぜなら「子どもにこれだけかかるはずがない」という考えの方が、よほど問題の大きさを矮小化しているからです。本当はそれだけかかるものを「かからないはずだ」と言う方が問題を小さく見ているのは明らかでしょう?


そもそも、この社会保障の問題の矮小化こそが従来の経済学の盲点になっていたとも言えます。

ずっと経済学が市場での直接的な経済活動にばかり焦点を当てていた結果、家庭で行われていた社会維持活動のインフォーマルケアコストを見ていなかっただけなんだと思います。

それが何もかも市場化され経済合理性に基づいて判断される世の中になって、ようやく陰から浮き上がってきたのがこのケアにまつわる社会保障の問題です。

急に現れたんでなく、急に金がかかるようになったんでなく、これまでもこの巨大な問題はずっとそこにあったんですよ。ただ、私たちが見えてなかった、あるいは見て見ぬ振りをしていただけで。


そういえば、今年のノーベル経済学賞はクローディア・ゴールディン氏に贈られましたね。

奇しくも、というか、まさに今だからこそと言うべきか、ゴールディン氏の研究は「子どもを持つことでキャリアが毀損されることによる収入減少の問題」を指摘するものです。

歴史的には、男女間の収入差は若い頃の教育選択やキャリア選択に起因するものであったが、ゴールディン教授は、現在の収入差は子供を持つことによる影響が大きいことを明らかにした。

本稿の問題意識とも綺麗に重なる、このゴールディン氏の受賞は、ケアにまつわる社会保障の問題を経済学の視点から見つめる準備が社会の側にようやくできつつあることを示す象徴的な出来事であったと言えましょう。

ですから、「子ども1人増やすのに1〜2億円もかかるはずはない」という非経済合理的なコスパ感覚は、本気で経済を考えるならばそろそろやめにしましょう。

少子化対策とは、それぐらいのコストがかかる、それだけに私たち個々人の行動とそして社会文化の大きな変容が求められる、とてつもない問題であると認識すること。

まずはここから始めなくてはいけないのです。

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