年金制度(の認識)は既に崩壊している
先日、たまたま年金についてのこの記事を読みました。
国が国民年金の納付期間の延長案を検討してるとの報道です。
テレビの特集を文字起こししただけのようで、街角インタビューが主体のかなりライトな内容なのですが、世の中の生の声が感じられるだけになかなか考えさせられるものがありました。
これ、もう年金制度崩壊してるよね。
と。
正確に言えば、制度そのものが崩壊しているというのではなく、「年金制度とは何か」についての認識が人によっててんでバラバラで、そういう意味で崩壊しているなと。
たとえば、
という声。
「ひょっとしたら死んでるかもしれん」と言われてますが、そもそも年金制度はベースが「長生きリスクに備えるための保険」なので、むしろもらうまでに死んでいる(あるいは余命わずか)が通常想定で、生き延びていることは保険事故扱いなんですよね。
年金が「長生き保険」であるがゆえに、「死んでるかもしれない」と心配するためのものではなく、「長生きしちゃうかもしれない」を心配してそれに備える制度なので、意味合いが真逆になっています。
「死んでるかもしれない」を心配する保険、つまり「早く死ぬ」という保険事故に備える保険は「生命保険」として別途世の中に存在しています。
「確実に保険金をもらえてペイすること」を目指す保険はそもそも保険たりえないですから、年金制度にかける期待の認識がずれていると言えます。
あるいは、こちら、
「働かないといけないのかな」の部分は非常に重要なポイントですが、その話は後述するとして、まず注目したいのは後半の部分。
「年をとっているので」と言われてますが、そもそも年金制度が見直されるようになった機運が、高齢化にあることを忘れてはいけません。高齢化が進んでるのは言わずもがな平均寿命が伸びたからというのが大きな要因ですが、それに伴って健康寿命も伸びているのです。
もちろん、個人差はあるはずですが、それでも全体としては健康寿命が伸びている、すなわち「体の自由が利かなくなってる時期」が後回しになっているのです。
それゆえ、高齢化(ひいては健康寿命の延長)に対応して納付期間を長くしようという改革案に対して「年をとって体の自由が利かないので」と言うのは、ちぐはぐな認識になってるんですよね。
また、このNISAとか投資の話も非常にシュールです。
年金ではなく自分で資産運用しようということですが、実のところ年金自体が社会でも有数の資産運用母体なんですよね。
ググったところ現在運用資産額が約224兆円ですって。
もちろん、GPIFのような「国家の犬」なんて信用ならんから、自分で投資するんだということなのかもしれません(もしくは自分の方が「資産運用うまいぞ」という自信があるのかもしれません)。でも、国に対する不信は、高齢化に対応して年金制度の納付期間を伸ばすことの妥当性とは別の問題ですよね。
「(年金制度)をあてにしてない」と言って自分で投資するというのは、結局は年金制度と同じこと(資産運用)を代わりに自分でやろうと言ってるだけですから、ちょっとちぐはぐな応答なんですね。
それに、そもそもNISAもiDeCoも国がお膳立てしている制度ですから、国自身が個人の資産運用を勧めてるので、年金制度という国の思惑を抜けても、結局は別の形での国の思惑に乗り換えてるだけとも言えます。いったい、国のことを信じてるのか信じてないのか不思議です。(というか、年金の話なのにわざわざiDeCoでなくNISAに注目するコメントばかりなのも不思議)
街の人だけでなく、番組側のコメントも混乱が見られます。
今後年金納付期間が延長されるとして「そのための雇用(働き口)はあるのか」と心配するコメントです。
一見普通っぽいコメントですね。しかし、実はこの報道の冒頭でこの改革案の背景をこう説明しています。
現役世代(働き手)が減ってるから、もっと働いて納付できる期間を延長しようという案なのに、なぜか最後で「働き口はあるのか」と心配し始めてるんです。
「どっちやねん」ってなりますよね。江草はなりました。
ついでに言うと、この「ゴールポスト」理論も年金がそもそも「長生き保険」であることを失念してる認識だと思います。
どうも、年金はあくまで「保険」にもかかわらず「退職金」の一種のように勘違いされてる気がしないでもありません。読めば読むほど、年金を「60歳の定年まで頑張って働いた報償金」と認識してるかのような表現です。「60歳まで頑張って(仕事として)働いたから、その後は悠々自適に過ごさせてもらう権利がある」と言わんばかりのような。
このように、どうも年金制度の認識が人によってバラバラだし、混乱や矛盾も多々見られるわけです。
もっとも、こう言ってる江草も「年金制度をよく分かってる」と自認しているわけではありません。どちらかと言うと「年金制度わけわかんねーな」と思ってる方です。
たとえば、年金制度の設計に関わってる権丈善一教授もこのような解説記事シリーズを最近出されてたのですが、
まあほんと「目が滑る」と言いますか、難し過ぎてすぐによく分からなくなってきます。(またいつかちゃんと読み込みたいとは思いますが)
「何この複雑な制度」という感が否めません。
だから結局、江草も分かってないし、街の人も、番組コメンテーターさえも分かってない。みんなそろって年金の認識がカオスになっているわけです。(もしかしたら日本では権丈氏のような一握りの人物だけが年金制度を理解できてるのかもしれない)
これが、江草が「年金制度(の認識)が崩壊してるなあ」と感じたゆえんです。
そもそも年金が(ほぼ)全員強制加入のしかも「保険」であるにもかかわらず、全く制度の全貌の得体がしれず、人によってその認識がバラバラというのは、「保険」が果たすべき目的であるはずの「安心感の醸造」にあんまり寄与してないのではないでしょうか。
これを権丈氏のように「分かってない奴らが悪い」と言わんばかりの上から目線で語られると(氏の言説はわりといつもパターナリスティックな印象です)、そりゃ余計に人心は離れるというものでしょう。
だから、本稿では先ほど各種コメントの混乱ぶりを列挙しましたけれど、それらの内容の妥当性はさておき、あまりに年金制度が複雑怪奇であるがためにそういう拒否的な反応をしたくなる気持ちは分かるんですよね。
江草が時々言ってる「スパゲティコードモンスター」と化してる感があります。
だから、江草がベーシックインカム支持派なのは、こうした複雑過ぎる年金制度の影響力の緩和という側面があるわけです。
また、年金制度分からないくせに、ついでなので私見をさらに語っちゃいますが、あともう一つ江草が思う年金制度の隠れた問題として、その勤労主義志向があります。
こう、権丈氏も語ってるように、年金制度は保険料をたくさん払ったら年金が増える仕組みです。保険料をたくさん払うのはたくさん給料をもらってる人たちです。このことから示唆されるのは、「働いてお金をたくさん稼いでたくさん納めた人がえらい」が年金の根本の暗黙の前提としてあることです。
冒頭の報道記事でのコメントでも「これ以上働かないといけないのか」「働いていけるのか」「働きたい人たちには歓迎」などのような「働くこと」に関する言及が多々あったことから分かるように、「働くこと」と「年金」には密接な関係性があります。
もらえるタイミングや、結局もらえるかどうかに不確実性はあるものの、現状の年金制度は「どれだけ働いたか」がその者が報酬を受けるに値する価値の基準であるとする感覚に裏打ちされています。今、給与からめっぽう天引きされていたとしても、それが後からそれ相応の額で返ってくるのであれば、現行の報酬額が引き継がれ正当化されてると言えます。あくまで「多く稼いだ者が(後ほど)多くもらえる制度」なんですね。
つまり、年金制度に仕事報酬関連の再分配機能はないわけです。
いや、厳密に言うと基礎年金部分などでその機能は存在してるんですが、制度全体の基本姿勢として「掛け金が多い者が多く受け取る権利を持っている」という保険の、資金力が物を言う「ギャンブル」的なスタンスを固持していることは先の権丈氏の言説からも明らかでしょう。
年金制度をその支払額に足る有意義で有効な保険(ギャンブル)であると主張するならば、それは資金力がある参加者に有利な制度(分の良い賭け)であると言ってるのと同義です。それゆえ逆に、それが仮に参加者が不利な制度(分の悪い賭け)であるならば、それに強制参加させられる(特に高報酬の)稼ぎ手から不評になるのも自然であると言えます。
「資金を賭けるに足る分の良い賭けであること」と「資金力を平準化する再分配機能」はどちらかしか選べない典型的なジレンマになっているわけです。ここで前者を主張しているのが権丈氏であり、ひいては現行の年金制度の基本姿勢であると言えます。
さて、ここで、少子高齢化によって年金制度の存続が危うくなってることを思い出してください。
少子高齢化社会を支える、ケアワーカーやあるいは家庭での育児介護担当者は、おおよそ低報酬であったり無報酬であったりします。そういう彼ら彼女らは年金制度によるリスクヘッジの恩恵が乏しい存在になるんですね。
だから年金制度の思想を素直に受け止めれば、ケアワークや家庭での育児介護を避けて高報酬の仕事について長く働くことを勧めてることになるでしょう。しかし、これはますます年金制度の維持が困難になる社会のトレンドを助長することに他なりません。
もっとも、年金制度が本来、長命か短命かのリスクを分散するための仕組みなので当然と言えば当然です。実際、先の引用文でも権丈氏も「年金の世界で”支え手を増やす”という言葉は意味がなく」と断じています。
しかし、だからこそ、年金制度自体の限界がここにあると言えます。年金制度が「人のケアなどせずに高報酬の生産性が高い仕事で働いておれ」というメッセージを出しているがゆえに、その制度が立ち行かなくなる自己矛盾に陥っているのです。
本来ならば年金制度の健全な維持に資する人ほど年金制度で優遇すべきところなはずですが、それが評価できないのが「賭け金」しか見れない年金制度の限界なのです。
結局のところ、年金制度が所詮「保険」に過ぎないからこそ、現在の社会の喫緊の課題に向き合うためには足りないんですね。
本稿では(嫌らしく)世間の声の矛盾を指摘しましたけれど、それは年金制度が保険に過ぎないという事実との矛盾を指摘したにすぎません。裏を返せば、社会では「ただの保険では果たせない皆の希望に応える仕組み」が強く求められてると言えるでしょう。
それこそ、働いてるかどうかに関わらず、稼いでる額の多寡に関わらず、給付される仕組みとしてのベーシックインカムに期待されるところなのです。
(おまけ)「社会保険料」問題全般について概観した関連記事
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