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「ゆるい職場」にみるブルシット・ジョブの香り

「職場がゆるすぎて離職する若者たち」について語られたこの記事を読みました。


「ゆるい職場」とはどういうものか。
記事によるとこう。

──「ゆるい職場」とは、どんな職場のことでしょうか?

働く若者の能力や期待に対して、著しく仕事の負荷が少なく、やりがいや成長の機会が乏しい職場です。上司や先輩からのフィードバックが乏しいと感じてしまう職場でもあります。

「ゆるい職場」は悪か?若手・上司に知ってほしい“キャリア不安”の解決策


こうした「ゆるい職場」。いわゆる「ホワイト環境」にも関わらず、若手は成長を感じられないとして辞めていってしまうのだとか。

──「ゆるい職場」の課題として、若手の離職があります。若手の離職を考えると「ゆるい職場」の誕生は悪いことなのでしょうか?

勘違いはしないでほしいのですが、労働環境が改善し「ゆるい職場」が生まれたことは、間違いなく評価すべきことです。
ただ急激な環境の変化によって若者たちは、「このまま働いていて一人前になるのか」「この職場にいるとどんどん周りと差をつけられてしまうのではないか」と不安に思う人が増えているのも事実です。経営者や管理職からは、「なぜこれほど労働環境を良くしたのに、うちの若手は離職するんだ」という声を本当にたくさん聞きます。

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この問題に関して、記事では「職場の外での育成機会を設けることで成長実感を与える」とか「個人でキャリアを仮決めしよう」とかそういう提案がなされます。
まあ、こう言うとなんなのですが、ちょっと優等生的な回答というか、無難な発想だなあと。天邪鬼な江草としては、この現象について、もっとうがった見方をしてしまうんですよね。

私たちの常識的仕事観を揺るがす「ゆるい職場」の存在

この記事の指摘の要点は、若者の離職理由が人間関係だとか待遇への不満ではなくって、あくまで仕事が易しすぎるとか成長実感の無さであるところです。そして大企業の若者社員を想定して語られています。

ということは、逆に言えば、これらのゆるい職場の若手社員は、就職の競争が激しいはずの大企業で将来が安定し高待遇の立場にいるにもかかわらず、易しい仕事しか与えられず、その上とくにスキルアップにつながるような成長機会もないとなりますね。

これはどうも不思議に思われないでしょうか。

だって、世の中では「能力が高い人が難しい仕事をするからこそその仕事の価値にふさわしい対価として高待遇が付与されてる」というのが一般的な認識だからです。
今現在の仕事の能力への対価ではなく、厳しい就活をくぐり抜けた若手社員の潜在的なポテンシャルを期待してることによる高待遇であると考えたとしても、それならば成長させるような機会がふんだんに設けられてるはずですが、そういう機会もたいして設けられてないからこそ、今回の記事で問題として取り上げられるに至っているわけで。

「ゆるい職場で若手社員が辞めてしまう」
なるほど確かに問題でしょう。
ところが、一般的な私たちの仕事観からすれば、そんな職場が就職の競争が激しい大企業において存在しうるはずがないのです。

「価値ある難しい仕事をしている」か、あるいは「将来価値ある難しい仕事を担うために鍛えるための選りすぐりの人材である」からこそ、安定と信用と高待遇が得られるはず。そんな常識からは考えられない職場が存在してしまっていることを元記事は暗に示しています。

つまり、現代の仕事環境において、私たちの従来の仕事観の常識が成り立たなくなってきつつあるという現象を描き出していることこそが元記事が非常に面白いところなのです。
しかし、残念ながら、この非常に興味深い点を元記事は特に気にする様子もなくスルーしてしまっています。

「ゆるい職場」にみるブルシット・ジョブの香り

元記事には具体的な事例の提示がないので江草の個人的な推測にすぎませんが、この記事がとりあげている「ゆるい職場」には少なからず「ブルシット・ジョブ」が含まれているだろうなと感じます。

「ブルシット・ジョブ」は日本語では「クソどうでもいい仕事」などと言われますが、非常にラフに一言で言えば「やってる本人にとってさえ価値があるように思えない仕事」ということになります。正確な定義はぜひグレーバーの書『ブルシット・ジョブ』をご参照いただきたいのですが、この「ブルシット・ジョブ」は思いのほか、高学歴な社員が高待遇かつ低負荷な職場で味わうものであることが指摘されています。
まさに元記事の示す「ゆるい職場」との類似点を感じざるを得ません。

「こんなことして何の意味があるんだろう」「これで自分が成長する気がしない」「たいした仕事をしてもないのに報酬だけは高い」という虚無感を感じながらも、「自分の報酬が高いのは意義深く難しい価値ある仕事をしているからだ」という常識に従うべく、建前上「意味のある仕事をやってます」「難しい仕事に挑んで頑張ってます」という欺瞞的なポーズをしなくてはいけない。
記事が言う「ゆるい職場」は、そうしたブルシット・ジョブ的な矛盾に耐えきれないからこそ若手社員が辞めていっているように思えてならないのです。

この矛盾は、「価値がある仕事に報酬がついてくる」という常識が社会的には広く浸透しているにもかかわらず、現実の職場ではその常識が成り立ってないこと(少なくとも成り立たなくなってきていること)から来ています。

今回の「ゆるい職場」記事こそはその常識が幻想ファンタジーとなってることを暗示するものですが、その他たとえば『給料はあなたの価値なのか』という書籍でも同様に「いかにその常識が幻想ファンタジーであるか」が詳述されています。

つまり、「ゆるい職場離職問題」の背景には、「価値がある仕事にそれに応じた高報酬がついている」というのが幻想ファンタジーに過ぎないにもかかわらず、優秀な若者ほどそれを信じて頑張ってきて、結果、現実との矛盾に悩むワナに陥るというメカニズムが推測できるわけです。

矛盾の苦悩から解放されるためには「仕事」の枠組みから抜け出るべき

その矛盾に悩む若者の姿に対して、職場外に人材育成の場を設けたり、自発的に副業をしたりすることを勧めているのが元記事なわけですが、江草の個人的意見で言えば、それは残念ながら対症療法の姑息的な発想に過ぎないように思います。

だって、それは結局は依然として「仕事」に依存している策でしょう。
幻想が幻想でなく実際に成り立っている「理想の職場」、どこかにまだあるはずの「憧れのネバーランド」を求めてさまよってるようなもの。
「仕事」という枠組みから抜け出ていません。

もちろん、そうした「理想の職場」が現実として多く存在しているならば問題はないのですけれど、そうではないからこそ世の中で悩みさまよう若者が増えていて、結果、このように「ゆるい職場離職問題」として顕在化したと考える方が理にかなっているでしょう。

みなが理想に思い描くような仕事は少ないし、少なくともみなに広く割り当てられるほどは足りてない。そして、おそらくそのような「理想の仕事」は日に日に減少し続けている。
さらに言えば、書籍『WORLD WITHOUT WORK』が問題提起するように人が担うべき仕事の全体量そのものが世界的に減り続けるトレンドも示唆されています。

この状況下でみながみな仕事を通して自己実現することや成長することを目指すのは、それこそほぼ全員が苦悩することが運命づけられているレッドオーシャン的な不毛な方向性でしかありません。

むしろ、この矛盾の苦悩から解放されるためには、まず解決策を「仕事」の中で考える枠組みを抜け出て、「なぜそこまでして仕事をしないといけないのか」あるいは「各個人の人生は仕事で意味づけなければいけないのか」こそを問い直すべきだと思うのです。

もっとも、この問い直しこそがなかなか難しいのです。
今回紹介した元記事が「ゆるい職場離職の問題を他の仕事や新しい仕事を模索することで解決すること」をなんら疑問視していないように。

これぞ、前回のnoteで江草も示したように、私たちが「仕事がない世界を想像できない」という「勤労主義リアリズム」の根深いところであって、非常に難しく悩ましい社会課題なのです。


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