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子育ての大変さと喜びは同時に存在する

「少子化問題が話題になる時に子育ての大変さや辛さ、金銭負担などばかりフォーカスされて、子育てすることの喜びや幸せについてはあまりフォーカスされないのは悲しいし、おかしい」という意見をこないだ聞きまして。

いや、実際その通りなんですよね。「大変だー」「負担だー」というネガティブな側面ばかりが取りあげられて、「幸せ」とか「楽しい」というポジティブな側面はあまり取りあげられない。特に少子化対策の報道みたいなお堅い場面ではそうです。

これでは、確かに育児に対してネガティブなイメージばかりついて、余計に少子化を助長する可能性もあるでしょう。

ここで問題になるのは、「大変だー」というネガティブな側面を強調しないと助けるべき対象としてみなしてもらえない現代社会の空気の存在です。「幸せなんです」などと言おうものなら、「なんだそれなら十分に恵まれてるじゃないか」となってしまいがちなんですよね。

PTA役員を決める時にも「いかに自分が大変で忙しい状況にあるか」を相互アピールして役員になることや重たい負担の役回りを当てられるのを免れようとする「不幸自慢大会」がところにより発生するらしいのですが、それとも近いものがあります。

いわゆる「被害者ムーブ」や「かわいそうランキング」の問題なんですが、「不幸でない者は助けてはならない」「ネガティブな要素の多寡比較で助けるべき対象を決めるべき」という雰囲気が社会の津々浦々に蔓延してるわけです。

ある意味では、リベラリズムの大家であるロールズが提唱した「マキシミン基準」(最も不遇な者を助けよ)に沿ってるとも言えるのですが、だからといってこうして社会全体が積極的に自己のネガティブ要素をアピールしてポジティブ要素をひた隠しにする「不幸自慢大会」になってるのはやはり健全ではないと言えましょう。

とはいえ、江草自身、ここnoteで少子化問題の話題を頻繁に扱いながら、社会における育児環境の不遇さをアピールしちゃってる一味でもあるので、反省するところがあります。

だから、ここで改めて強調したいのは、育児はめちゃ楽しいし幸せであるということです。

もうね、子どもはほんとかわいいし、成長を見るのもいつも驚かされるし、やべえマジ最高って常々思っています。何より、子どものおかげで大人の自分の方が人生について考えさせられたり教えてもらうことが多々あって、子どもたちは「人生の教師」だなと思います。

で、そうしたポジティブな側面を押さえた上で、確認しておきたいのは、こうした育児のポジティブな側面と、ネガティブな側面は、どちらか一方だけが成り立つものでも、相殺して差し引きゼロになるものでもなく、どちらも同時に存在するということです。

つまり、子育ての大変さと喜びは同時に成立するんですね。

でもって、この「大変さ」が「大変すぎる」とやっぱりなかなか子どもを産み育てるのに躊躇する社会にはなるだろうというわけなんです。

以前、タレントのイモトアヤコさんがマッキンリー登頂よりもワンオペ子連れ旅行の方が大変だったと語っていたことを話題にした記事を書きました。

ちょうどいいので登山に例えてみましょう。

登山って大変じゃないですか。でも、登山すると大きな喜びもあるわけです。

登山家は「登山って大変ですか?」と聞かれたら「大変ですよ……」と答えるでしょうし、「登山っていいものですか?」と聞かれたら「最高です!」と答えるでしょう。

つまり、登山という行為において大変さと喜びが同時に両立してるわけです。

江草自身、一度富士登山をしたことがあるのですが、大変だったけどほんと人生の思い出に残る最高の体験だったなと思ってます。

でもね、「じゃあもう一度富士山登りますか?」と聞かれたとしたら、さすがに大変すぎたので躊躇してしまうというのが本音です。

確かに幸せだったけど大変すぎました。

同様に、イモトアヤコさんだって「もう一度マッキンリー登りますか?」と聞かれたら、ちょっと考えるとは思うんですよね。やっぱりあまりに過酷なだけに、だいぶ事前の覚悟が要る行為ですからね(もしかすると「登る!」と即答されるかもしれませんが)。

で、このように考えると子育てもそういうところがあると思うんですよね。

「子育ては幸せですか?」と聞かれたら「幸せだ」と多くの人が思っている。その一方で同時に「もうさらに何人も産み育てるのはさすがに大変すぎて厳しい」とも思っていると。

ここであえてドライな話をすると、少子化問題を解消するには、理屈から言って、一人の女性が2人以上(なんなら3人以上)は産んでもらわないといけないわけですね。つまり子育てのリピーターになってもらわないといけない。

だから、「もうさらに何人も産み育てるのはさすがに大変すぎて厳しい」とリピートを躊躇わせる状況は困るわけです。しかし、これはだからといって別に「子育てに幸せや喜びがない」と言ってるわけではないということが肝要です。

この「大変であることと幸せであることは両立する」というのが本稿で言いたいことです。

もちろん、細かいことを言えば、「大変だからこそ幸せ」という側面もあろうかと思います。富士登山だって苦労したからこそ良い思い出になってるところがあります。育児だって「子育て大変だったなあ」と語る人たちもどこか幸せそうな表情をしています。ネガティブな側面とポジティブな側面の境界は思いのほか曖昧なものです。

ただ、幸せを最大限に感じられる適切な大変さというのもあるとは思うんですね。過酷すぎれば幸せを感じる余裕さえなくなる場合がある。「大変だからこそ幸せ」も時に成り立つからといって「いくらでも大変にしていい」ということにはなりません。

特に「また産み育てよう」と思ってもらうには、それが大変すぎてはまずいわけです。もっともっと繰り返しこの幸せを堪能していただくための「適切な大変さ」に調整する必要があるのです。

だから、江草がこれまであるいはこれから「育児の大変さ」を強調する場面があったとしても、それは「育児の喜び」を否定するつもりはないんですね。むしろ「育児の喜び」のためにこそ、「大変すぎる」を解除しようと言ってることになります。

大変さと喜びは同時に存在するのです。


まあ、ポジティブな側面よりもネガティブな側面ばかりを強調してきた事に対する言い訳がましい説明だったかもしれませんが、育児のポジティブな側面を気兼ねなく言える社会にするためにも、この辺の整理は改めてしておきたいと思った次第です。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。