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ああ青春の支笏湖YH


 オレがまだ大学生の頃、夏の北海道はYH(ユースホステル)に泊まって貧乏旅行する若者であふれていた。北海道にはたくさんの魅力的なYHがあり、若者は観光地よりもYHそのものの魅力を求めて旅をしたのである。旅の目的=YHめぐりだったのである。




 北海道3大キ〇ガイユースと呼ばれたYHがあった。1980年当時のオレの記憶ではそれは野中温泉YH、稚内YH、えりも岬YHであり、他にも積丹かもいYHや岩尾別YHを挙げる人もいた。また礼文島にある桃岩荘YHは他のYHとは比較にならないほど狂ってるのでそこは別格扱いだったとオレは記憶している。





 試しにネットで検索すると、キチ〇イという言葉がつかえなくなったせいで後に北海道3大馬鹿ユースと呼ばれるようになったようで、その3つとして挙げられてるのは桃岩荘、岩尾別、えりも岬の3つだった。〇チガイユースというのはミーティングと称する夜のレクレーションの時間に変な踊りをさせたり罰ゲームがあったりするという意味で、その面白さを求めて若者はそこに長期滞在したりしたのである。

※:参考 「周遊券の思い出」

(江草乗の言いたい放題2013年02月18日の記事)


 ところが北海道のYHの中にはそうした狂った方向ではなくて、正統派のYHももちろん存在した。おいしい食事と楽しいレクレーションタイムで盛り上がるTHE青春という雰囲気のYHである。その代表が支笏湖YHである。



 大学2回生の夏、自転車で北海道を旅していたオレは狂ったように北海道のYHを泊まり歩いていた。礼文島では桃岩荘に連泊して愛とロマンの8時間コースを歩いたし、知床半島や摩周湖まで足を伸ばした。そしてえりも岬YHにももちろん泊まった。そこでオレは他の旅人から「支笏湖YHは天国だ」という話を聞いたのである。それは

夕食はジンギスカン
ミーティングはフォークダンス

というものだった。これは何が何でも行くしかない。しかし、えりも岬から支笏湖までは200キロ近くある。サイドバッグ2個とフロントバッグに荷物を積んだ状態でその距離を走るのはかなり無理がある。しかしオレは無謀にもそれに挑んだのである。ジンギスカンとフォークダンス、食欲と性欲の二つを同時に満たせるこの目的のためにオレは必死で走ったのだ。




 日高本線をゆっくり走るディーゼルカーと抜きつ抜かれつを繰り返してオレは海岸線の道路を爆走して無事に200キロを走り切って支笏湖YHには夕方16:30くらいにたどり着けたのである。



 さて、夕食のジンギスカンだが鍋を置いたテーブルを数人で囲んで座る席になる。その時のメンバー選びが重要だ。できるだけ女性の多いテーブルにつかないと悲惨なことになる。男ばかりで肉を奪い合うような悲劇は避けないといけない。オレは自分以外のメンバーがすべて女性という卑怯なテーブルをゲットして肉を食って食って食いまくった。幸いそのテーブルの女性たちはみなさんおしとやかな大和なでしこで、もえあずとかギャル曽根のような方はいなかったので、オレは存分に肉が食えたのである。



 そしてミーティングが始まった。フォークダンスである。その夜は幸いなことに宿泊者の過半が女性だったので男同士で手をつなぐという悲劇もなく楽しく踊ることができた。宿泊者の男女比は日によって違うので、男ばかりだと大変な悲劇が起きることになる。そこでもオレはなかなかついていたのである。大勢のきれいなお姉さんたちの手を握ることができたのである。もうフォークダンス最高である。




 ここで軟弱な人間ならそのまま支笏湖YHに何日も連泊して怠惰になってしまうところだが、ストイックに自転車で走りまくることを目的としていたオレは気持ちを切り替えて翌日は積丹かもいYHに向かって無事に旅立ったのである。



 オレにとって青春の思い出だったその支笏湖YHがなんと3月末に閉館することになったという。あれから40年近い日々が経過して、まだ存続していたということも驚きなのだが、酒も飲めないし、男女別々のユースホステルという宿泊形態が敬遠されるようになり、かつては日本中にあったYHが激減してしまった。わずかな生き残りのYHも昨年からのコロナで閉鎖や廃業に追い込まれたりしていたのだが、ついに日本ユースホステル協会直営の第一号として誕生した支笏湖YHが廃業して姿を消すのである。




 若い頃に支笏湖YHに泊まってジンギスカンを食べ、フォークダンスを楽しんだ方は大勢いるだろう。その思い出の場所が消え去るのである。宿泊者が年々減少していったのは世の流れで仕方のないことだが、ピーク時の1973年には年間宿泊者が2万1000人もいたと新聞記事で知ってオレは驚いたのである。


オレと同じ世代の人々にとって、ユースホステルを泊まり歩いた思い出はいつまでも心の中に刻まれているだろう。一つの時代の終焉をオレは感じてしまうのである。



モノ書きになることを目指して40年・・・・ いつのまにか老人と呼ばれるようになってしまいました。