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京都大学サイクリング部(KUCC)の思い出

 10月16日(日)、京都大学の時計台ホールでは京都大学サイクリング部の創部50周年記念式典が行われた。1972年に創部して、今年が2022年だから創部50周年ということになる。オレが京都大学サイクリング部に入部したのは1979年の春である。入部したのはもう43年前のことなのだ。



 オレは一番になりたかった。誰も行けないようなコースを走り、誰も登れないような峠を越え、誰よりも速く走りたかった、しかし、オレが得意なのはヒルクライムではなく、どちらかというと長距離を高速で巡航し続けることだった。それは中学、高校の時に一人で自転車に乗っていた頃から変わらない。



 大学生の時、春や秋にうまく時間を作って、信州の峠を走った。大学には秋休みがあったし、授業をうまくサボって5月や6月に時間を作ることもできた。一回生の秋休みだったか、前期試験が終わった後の休みだ。夜行のちくまで松本に行き、そこから新島々まで輪行して、一気に乗鞍岳山頂を目指した。登山者もそれほど多くなくて山頂まで担ぎ上げた後、乗鞍高原のユースホステルに泊まり。翌日は諏訪湖ユースホステルで休養し、それから大河原峠、八ヶ岳の東側の林道を通ってそこから麦草峠へ、清里ユースホステルから道路最高点の大弛峠をこえたことがあった。



 2回生、3回生の夏はどちらも北海道を旅した。礼文島に渡ったり、知床峠を越えたり、広い北海道をダイナミックに走った。サイドバッグを二つ積んだ装備で、襟裳岬から支笏湖までの200㎞くらいの距離を一日で移動したこともある。信州で合宿を終えて、京都までの330㎞をノンストップでその日のうちに帰ってきたこともあった。京都から夜行で信州入りしてソロで峠にアタックするというのはその後も何度かチャレンジし、八ヶ岳の夏沢峠、南アルプススーパー林道の北沢峠権兵衛峠の旧道野麦峠などを走った。サイクリング部の合宿でも信州は走ったし、後輩と一緒に東京まで夜行で輪行して、奥多摩から大菩薩峠を越えたこともあった。




 サイクリング部の一年先輩には海外ツアーのパイオニアのような方がいて、カナダを横断された時に空港までその旅立ちを見送りに行ったことを思い出す。


 当時、部では東京大阪間を何時間で走れるかということにチャレンジする者がいたが、私は箱根峠を越えるのが厳しいと思ったので、標高差の少ない下関京都間をノンストップで走ることにチャレンジして、24時間弱で走りきった。オレが3回生の秋には耐久ランという行事が始まったが、ライバルと思っていた相手が不参加だったり体調不良だったおかげでオレは記念すべき第一回大会(TQR)の優勝者となることができた。比較的標高差のない平坦なコースを速く走るということにおいてはオレは部の中で一番自信があった。あと、ヒルクライムは得意じゃないが、ダウンヒルは一番得意で、命知らずの高速で下るのでよく先輩から注意を受けていた。渋峠の下りでは車をスイスイ抜いて走った。絶対に自転車の方が速く下れると思った。




 卒業してからもオレはしばらくサイクリングの世界から離れられず、西日本大学サイクリン部連盟(西サ連)のラリーに参加し続けた。教員という仕事のおかげで夏休みや春休みがあったからだ。しかし、体力は確実に落ちていった。現役の時のように練習もできなかったからである。西サ連の思い出を文字として残したくて、『イノコ』という長編小説を書いたのはもう20年以上も前のことである。




 最近『弱虫ペダル』というアニメを視て、そこで「ケイデンス(ペダルを回す回転数)」を重視する理論が紹介されていた。自分の走りもまさにそうで、少し軽めのギヤをくるくると回す走り方だった。チェーンホイルのアウターギヤを46T、フリーはシマノ600の13~21とクロスに組んでいて、一番軽いギヤは26×21という組み合わせだった。(マニアックな内容でごめんなさい)アニメを視ていて「我が意を得たり」という気分になったものである。




 旧道や林道、そして担ぎをする自分のスタイルは当時のサイクリング部の中ではかなり変態だと思っていた。しかし、後輩たちの変態度ははるかに想像を超えていた。冬の北海道に出かけたり、八ヶ岳を担いで縦走したり、海外ツアーも普通となり、南米で標高6000mに担ぎ上げるとか、カラコルムを目指すとか、常識外れの後輩たちの活躍にはもう唖然とするばかりだった。




 かつて自分が所属した京都大学サイクリング部をオレはとても愛している。50年の歴史を越えてこの部が存続し、そしてこれからも発展していくことを信じてやまない。5年ごとのOB会にもずっと参加し続けようと思っている。そして300㎞走る自信が復活すれば、秋の行事である耐久ランにもOBとして参加したいと思った。60歳を越えた高齢者が若者に混じってまともに走れるはずもないのだが。



モノ書きになることを目指して40年・・・・ いつのまにか老人と呼ばれるようになってしまいました。