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都会暮らしはお金がかかる

 最寄り駅まで車で20分かかる田舎から、ターミナル駅といえる駅まで20分で行けるような関東圏に引っ越して数年がたった。都会の利便性にもだいぶ慣れてきて、それなりに都会人に擬態できないこともない状態になってきたような気がしている。そんな私がお上りしたての貧乏時代、一番しんどいと感じたことは、都会の駅前の豊かさであった。

 私の住んでいた田舎は、文字通り車社会であった。唯一の公共交通機関であるバスは一時間に1本という少なさで病院通いの高齢者か通学の高校生くらいしか利用しない。18になれば車の免許をとることが当たり前で、免許保持者の数の車が各家庭にあるのが当然だった。そして、何をするにも車が必要で365日車に乗らない日はなかった。なんせ、コンビニに行くのだって車で5分はかかるわけだから。

 しかし、この環境は、怠惰なものにとっては案外利点もある。無駄遣いをする機会が少ないという点である。車社会は、車に乗らなければどこにも行けない。つまりは、労力を使わなければ、どこかに行ってお金を使うことがないのである。

 これは通学や会社帰りでもそうだ。例えば、コンビニによろうとすると、まずコンビニの駐車場に入り、車を止め、シートベルトを外して、荷物をもって、車を出て鍵を閉める、そして、コンビニに入り、買い物を済ませて、車のカギを開け、中に入り、荷物を置いて、シートベルトを締めて、エンジンをかけて、駐車場から車を出す。言葉にすると簡単だが、行きたいコンビニが道の右側にあったときは右折が必要になるのでさらに億劫になる。(右折は反対車線の車が来ていないタイミングで曲がる必要があるので、左折よりはかなり面倒)コンビによりたいなー、と思っても面倒だな、という気持ちでそのまま車を走らせれば、コンビニでの無駄遣いを回避することができる。つまり、労力を使わなければ、お金を使う場所に向かうことができないのである。

 けれども、都会は電車が中心の社会である。ゆえに基本的に車は使わない。自宅の最寄り駅に徒歩または自転車で向かい、目的地の最寄り駅で降りる。帰りはその反対。駅が中心の生活で移動手段は基本的に徒歩であることが多い。そして、都会の駅前は基本的に発達している。コンビニは当然として、駅自体がショッピングセンターになっている場合だってある。つまり、何の労力もなくお店に立ち寄ることができるのだ。仕事で疲れた体に外食やテイクアウト、間食といった誘惑が毎日のように押し寄せてくる。また、意図せずに(わざわざショッピングモールに向かうこともなく)可愛い雑貨や素敵な洋服を見ることができる。食欲も物欲も常に刺激されてしまう、それが都会という環境である。

 以前、もともと都会に暮らしている人にこの際限なく刺激される欲望に関する悩みを吐露したことがあった。けれど、その人はその環境が当たり前すぎて何を我慢する必要があるのか(特に気にせず通りすぎることができるだろう)と伝えてきた。ああ、都会育ちと田舎育ちにはこんなにも差が出るのかと思い知った場面であった。

 何もない、もしくは労力がかかることでストップされていた田舎者の欲望は多くが満たされている都会のきらびやかさに飲み込まれてしまうことが多い。もしくは、その欲望に対する対価を持ち合わせていないことが、心をむしばんでいくこともある。お金があれば、駅前のあのカフェでご飯を食べて、あの洋服を買って、あの家具を家において……。田舎であればあまり感じなかった、暗い気持ちが心を締め付けてくることだってあった。これが都会の怖さの一つなのかもしれない。

 都会暮らしはお金がかかる。それは単純な家賃だけではない。身に余る供給が、押さえつけられていた需要を喚起して、手に入れられないという思いが心を暗くさせるのだ。都会は自分の希望や欲望を可視化して、サービスを与えてくれる。その対価さえあれば。それは、とても素敵で魅力的で心をとらえて離さない。けれども、自分の支払える対価を見失ってしまう怖さもある。初めから知りたくなかったと思うこともある。その折り合いをどこまで付けられるか、それが都会で上手に生活できるかどうかの分水嶺である気がしている。

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