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風呂に入ったもので後悔したものはいない

 誰だこんな主語の大きなタイトルをつけたのは。間違いなく私なのであるが、思わず怖気付くレベルの適用範囲の大きな言葉である。むしろ悪魔の証明が必要なレベルである。大きな主語には気をつけなければいけない。主語は常に自分だけにしておくほうが良い。自分の考えはあくまでも自分の考えなのだから。

 話を戻そう。上記のタイトルは、私がお風呂に入らなければと思いつつぐずぐずしている時に、なんとか腰を浮かすために思い浮かべる言葉なのである。お風呂に入ること自体は嫌いではない。むしろ湯船に浸かることは大好きだ。ゆらゆらと自分を浮かせながら温まることはとても気持ちが良い。香りの良い入浴剤なんかが入っていればさらに最高だ。炭酸ガスの出る入浴剤もいい。乳白色の入浴剤はなんだか肌が綺麗になるようでウキウキする。体を洗うことも嫌いではない。むしろ水分を浴びることは好きで、シャワーもいくらでも浴びていたいとも感じる。

 けれども、1日の終わりがた、お風呂に入る前に体を横たえてしまったとき、お風呂への気持ちががっかりと減ってしまうのである。このままゆっくりとダラダラ過ごしたい。お風呂に入るよりも体を横たえていたい。体の表面の汚れだけを洗い流すような魔法があればいいのに、なんて夢のようなことを考えたりもする。体を洗ってさっぱりするよりも、現状の安息を持続させたくなるのだ。また、お風呂というものは労力がかかる。お風呂から上がった後の衣服の準備、風呂場への移動、お風呂、風呂上がりに髪を乾かし、準備した衣服を着る。横たえた体でその一連の流れを考えただけでげんなりしてしまうのである。翌日誰とも会う要件がなければそのまま寝てしまえるのに、なんてことを考えるのは日常茶飯事である。

 けれども、夜に風呂に入らずに翌朝バタバタしてシャワーで済ますことになり、後悔したことはあっても、お風呂に入って後悔したことは今のところない。体を洗うことはさっぱりして気持ちいいし、社会生活を過ごす上で毎日風呂に入ることは必要なことだと思われるからである。お風呂に入って後悔したものはいない。少なからず、私の過去の中にはいないのである。それは、清潔を嫌う人以外にはあららか通じるものなのだと思う。

 お風呂に入らないことは一種のセルフネグレクトなのだという。たしかに、気分的に鬱傾向の時ほど風呂に入ることが億劫になる。自分を清潔にすることに意味を感じられなくなるし、清潔にするよりも、動かないでいることの方が安定的で和やかに過ごせると感じるからであろう。けれど、お風呂に入らずに夜を過ごすと、なんとなくの後悔が胸に残るってしまう。まるで1日が尻切れ蜻蛉になったような気もにちなってしまうのである。そんな小さな後悔が、自分の自尊心を少しずつ傷つけていくのかもしれない。

 お風呂に入ることに対する感情は今や私の感情のバロメーターである。精神的にしんどい時は入りたくなく、気持ちが安定している時はサクッと済ませたくなる。私にとっては風呂への気持ちがそのまま自分自身に向けられた愛情の表れなのだ。だからこそ、最近はなるべくお風呂に早めに入ることにしている。早く入ってしまえはぐずぐずと悩むことはないし、夜の早い段階で1日をやり切ったという気持ちになるからだ。お風呂にはいったもので後悔したものはいない。そう言い聞かせ、私は今日もお風呂に入るのである。そんな覚悟でお風呂に向かうものもいる。今日のnoteはそんな人間の心の吐露である。

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