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会えなくても、分かっていた

10月27日。

いつもより早めに夕食を食べ終わり、いつもより早めにベッドに入って、本を読んでいた時だった。

突如携帯電話が震えた。末の弟からの電話だった。

「あのね…」

末の弟と私は結構頻繁にLINEでやり取りはしていたけど、電話を掛けてくるなんて珍しいことだった。どうしたのと軽い口調で私が出たものだから、普段通りに話し出そうとしたのだろう。あのねと繰り返して、躊躇してーーー電話の向こうの空気が震えていた。それが弟の嗚咽だと気がつくまで、随分と時間を要した気がする。

「お父さんが」

そうして、父が心肺停止で病院に運ばれたと知った。もう手の施しようが無いことも。

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父は40代の時に腎不全を患い、それから20年近く人工透析を受けてきた。週に3日は会社帰りに病院へ通って透析を受け、夜中に帰宅した。母は専業主婦だったが、毎週土日は父が家族の食事を3食作った。ちょうど末の弟が産まれたばかりだったからかもしれない。それでも、食事制限され水分補給もままならない父にとって、家族の食事を作ることは酷なことだったのではないだろうか。4人兄弟でしかもまだ幼かった私たちには、父の苦しみが分からなかった。食べられない自分を他所に、子供たちの為に買い出しも料理もする父を、あの頃は他人事のように感じていたと思う。

自分が思うように食べられない中でも、父は子供たちにいろんな美味しいものを味わせた。季節ごとの旬なフルーツや、上等な肉や魚。それぞれの誕生日にだって、ケーキを必ず買ってきてくれた。父は「俺はこれさえあればいい」と、ケーキに巻かれている透明なテープについた生クリームだけを舐めていた。

私の妊娠が分かった時、夫は何よりも「お父さんが喜ぶね」と嬉しそうにしてくれた。

頑固でぶっきらぼうな父を苦手とする人は多いけど、本当は人情味があって優しい人なんだと夫は分かってくれていた。父がどれだけ苦労してきたかも知っていたから、孫を見ることが父の一番の喜びであるのではと考えてくれていたのだろう。

私は若い頃に過ちを犯し、両親を落胆させてしまった不甲斐ない娘だった。だからせめて人並みに幸せな結婚をし、子を産み育てることが親孝行になると信じていた。

だから最愛の夫との間に子供が出来て飛び上がるほど嬉しかったし、何よりも父に初孫を見せてあげられることが嬉しくて、安堵していた。

妊娠が判明した4月初め。世間には新型感染症の影が徐々に忍び寄ってきていた。

直後に緊急事態宣言が発令され、不要不急の外出を控えて私たちも実家を行き来しなくなった。自分も都内に通勤していたし、何よりも持病のある父や母を危険に晒したくなかった。

あまり頻繁にメールをしていなかった父と、この頃からよくやり取りをするようになった。

お腹の子が順調に育っていること。性別が女の子だと分かった時も、初めての3D超音波検査で我が子の顔を見た時も。私はなるべく父に報告するようにした。

父もお腹の子のことを気にかけてくれていたのだろう。その夏、北海道の新鮮な野菜や瑞々しい山梨県産の白桃、大粒のシャインマスカットなど、実にいろんな食べ物を送ってくれた。孫についてあまり言及することは無かった父だけど、それでも私は確かな愛情を感じた。元気で健康な赤ちゃんが産まれてきてくれるようにと、願ってくれていたのだと思う。

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あまりにも呆気なく、唐突すぎる最期だった。

会社からの帰り、自宅マンションの駐輪場で倒れていたところを近所の誰かが発見し、救急車を呼んでくれたらしかった。

その時すでに父は心肺停止の状態だった。

母と末の弟が救急車に乗り込み病院へ走り出す間も、絶え間なく心臓マッサージは続けられ、救急隊員の方が必死に父の名前を呼びかけても、虚ろな父の目に光が戻ってくることは無かった。

10月27日、21時38分。

病院で、父の死亡が確認される。

お腹の子が生まれるまで、あとひと月半という頃だった。あとひと月半ほどで、父は初孫に逢えたはずだった。

後から分かったことだが、原因はおそらく冠動脈の石灰化による心筋梗塞ではないかということだった。長年の人工透析治療で、父の身体は限界まで来ていたのだった。


父の死の2週間ほど前、私の職場のアドレス宛に父からこんなメールをもらった。

『連絡;◯◯株式会社 東京支店 東京営業部
       ◯◯◯様

ほぼ、順調ですか?おなかの子供の顔がまるで、お前の旦那似だと、おかと弟が言ってましたが、おどには、分かりませんでした。

ところで、ニュースで産後うつについて話しておりました。
NHKで見ましたが、人間は本来、一人では子育ては出来ない生物で、唯一自分の子供を他人に預けて生活出来る動物なのだそうです。

だから、生んだばかりでも次の子供を作れるし、他の人が子供を見てくれても何も違和感には思わないと言うのです。

そこで、生まれたらですが、遠慮なくおど・おかを頼りにして良いです。

おども透析日以外には協力したいと思います。

(おど)』


仕事のアドレス宛にメールを送ってくるなんて珍しいことで、少し驚いたことを覚えている。

表題も何処か仰々しくて可笑しいのだが、きっと父なりの照れ隠しだったのだろう。

昔から甘やかす人でもなかったから、まさか父がこんなメールを寄越すなんて、私には思いもよらないことだった。それだけ父は私たちのことを気にかけ、孫に逢えることを今か今かと心待ちにしていたに違いない。

悔やんでも悔やんでも、父はもう戻ってはこない。

娘を抱かせてあげることも叶わない。

表面は硬くても、いつだって私たち子供たちにありったけの愛情を注いでくれたことも。

お父さん、ちゃんと分かっているからね。

そう伝えてあげることも出来なかった。


それでも最期に、こうやって父の内面に触れることが出来た私は、まだ幸せのうちなのだろう。

生前、あまり素直になれなかった父が垣間見せた優しさをお守りに、私と娘と夫、そして残された家族でこの世界を生き抜いていかなければ。


#やさしさにふれて

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