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「緑の歯」で笑うことが僕にできる唯一のチーム貢献だった。

70試合を戦い、投げたのはわずか14イニング。
0勝0敗、防御率7.36。

これが僕の野球人生最後のシーズンの成績だった。

そしてシーズンが終わるとひっそりとユニフォームを脱ぎ、現役選手としての野球人生に終止符を打った。

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昨年までプロ野球独立リーグの新潟アルビレックスBCでピッチャーをやっていた三木田と申します。今は、同リーグの福井ワイルドラプターズで球団広報として第二の人生を歩み始めました。

今回は、昨年の出来事について書いてみます。普段のnoteとは文体が異なるかもしれませんが、少しでも皆さまの心に届けばと思います。

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中学→高校→大学と目立たない選手ながらも、継続力と負けん気だけでなんとか野球を続けてこれた。

けどステージが上がるにつれて、周囲と自分を比べることを覚えてしまい、「プロ野球選手」という夢は歳を重ねるごとに遠くなっていく。

勉強は人並みに頑張っていたので、大学はそこそこ名の知れた国立大に進むことができたし、大学院にも合格が決まっていた。

だけどこの歳の大学生にはありがちな「自分は何者か」という問いに悩まされ続けているのも事実だったし、この「大学院進学」というレールに乗ることが「正義」かは正直分からなかった。
そんな中、お世話になっていたチームの先輩が、諦めずにプロ野球選手を目指し続けている姿がすごくカッコよかった。

その先輩と話すうちに、自分も独立リーグという世界に興味を抱くようになり、自分の野球の可能性に1パーセントだけ懸けてみたくなった。
ダメなら野球は辞めるつもりだったけど、その開き直りが功を奏したのか、入団テストでベストピッチをすることができ、新たな道をこじ開けてしまった。

今までまったく光が差さなかった野球人生だったけど、このとき少しだけ遠くにその光を垣間見ることができて、、、

そして周囲の後押しもあって独立リーグへの挑戦を決めた。
大学院の教授に「入学辞退」を告げた日のことは今でも覚えている。申し訳ない気持ちも当然あったが、その帰り道はすごく晴れやかな気持ちだった。
覚悟を決め、退路を断ち、「自分が何者か」を審判してもらうために北海道から遠く四国のチームへ入団したのだった。

医学部卒、気象予報士、など野球選手とは関係のない肩書きをずっしりと背負ってしまったので、幸か不幸か、メディアの注目は高かった。
そこに少なからずプレッシャーは感じたものの、その期待を上回る結果を出す自信もあった。

1年目、2年目ともに、自分の理想とする高みまでは到達できなかったが、少しずつ成長している実感は得られていた。

周囲から見たらただの勘違いだったかもしれないが、
「自分はもっと成長できる」、「必ず上に行ける」、そう言い聞かせながら2年を過ごすことができた。

とは言っても、やはり年齢という大きな大きな壁は立ちふさがる。
いくら自己満足で続けていても、経済的な面などからこのまま何年もここで続けることへの限界も感じていた。

そして3年目をラストシーズンと位置付け、新天地・新潟へと居住を移した。

なお、この3年目のシーズンの成績は冒頭に述べた通りである。

1、2年目は「結果が出ない」という事実に対して、前向きにとらえることができた。「なぜ上手くいかなかったか」を探求し、そのために明日から何ができるかを考えながらプレーできた。自分を卑下することも、自分の可能性に蓋をすることも無かった。

けど3年目は違った。
「最後」と位置付けていたからか、とにかく焦ってしまった。理想だけが高くなり、現実とのギャップは日に日に広がった。そしてついに感じてしまった。

「おれはもう限界なのかもしれない」

そこからは一気にモチベーションを保つことが難しくなってしまった。自信を喪失し、マウンドに立つことが怖くなった。
周りからどう思われているのか、自分はここにいるべき人間なのか、また今日も上手く投げられないのか、、、考えなくても良いことばかり考えてしまい、野球も嫌いになりかけた。


けど、そんな中で大きな支えになる存在があった。

それはスタンドに足を運んでくれるファンの人たちだった。

特に心の支えになったのは、地域の子どもたちだ。

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話は少し過去に戻るが、大学時代のユニフォームの色は「緑」だった。はじめは気色悪いと思っていたが、やはり長く触れていると自然と愛着が湧いてくる。
気付けば、好きな色は「緑」になっており、4年時に最後と決めて買ったグラブの色も特注の「緑」だった。

幸運にも大学卒業後も野球を続けることになったが、独立リーグで最初に入った香川オリーブガイナーズのユニフォームも「緑」だった。

いつからかは忘れたが、パワーアップとケガ防止のためにマウスピースを装着して投げるようになった。たしか初代と2代目は透明のものだったが、独立リーグに進むタイミングで3代目を新調した。

おとなしく透明にすれば良かったものの、当時の歯医者がノリノリで「何色にしますか?」とカラフルなサンプルを提示してきたこと、緑色に不思議な縁を感じていたこと、僕が元来の目立ちたがりであることなどが重なって、緑色のマウスピースにしてしまった。

香川時代はそこそこ馴染んでいたものの(それでも相当インパクトはあったが…)、徳島→新潟と移籍し、ユニフォームに緑の要素が無くなると、緑の歯は不気味でしかなかった。

けどそれがアイデンティティになった。


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苦しんでいたラストシーズン。試合に出る機会は減っていき、目標も上手に保てない。そんな中ではあったが、いつチャンスが来ても良いように「準備」だけにはこだわった。

試合でも練習でもかなり早い時間から球場入りし、コツコツと日課のストレッチやトレーニングを続けた。それは登板直前でも同様だった。

自分の出番は試合の後半が多かったが、開始直後からブルペンと呼ばれるピッチャーの練習場で入念に準備を重ねていた。

すると、その周囲にいるスタンドの子供たちが声をかけてくる。

「何してるの~?」、「名前なんていうの~?」、「ぼくたち○○から来たよ~」などなど。

彼らにとっては、僕たちのことは「プロ野球選手」と認識していないかもしれない。
そのへんのお兄ちゃんくらいに思っていたかもしれないし、試合に飽きた時の話し相手くらいにしか思っていなかったかもしれない。

ましてや、今話しかけている目の前の選手が、心の中にものすごい葛藤を抱えていることや、出番直前で緊張していることなんて知る由もない。

さすがに試合中になると、そういった子どもたちの声に反応しない選手も多い。一度反応してしまうと、ずっと話しかけてくるし…(笑)

けど僕はできるだけ話し続けた。いくら気分が落ちている時も、いくら緊張している時でも笑顔で話し続けた。そして僕が満面の笑みを見せると現れるのが真緑の歯である。これに子供が興味を示さないわけがない。

子どもたちとの話はどんどん盛り上がり、僕の方からも「はじめて来たの?」「何年生?」など聞いてしまうと、試合が終わるころにはスタンドの彼らとはすっかり友だちになっている。

ちなみに独立リーグの試合後は、一般的に選手による来場者の「お見送り」があり、そこでファンの方々と交流ができる。
選手側からも来場者へお礼の言葉を直接伝えられるこの時間はすごく好きだった。

するとスタンドにいた子供たちが人混みをかき分け、大きな声で、

「あの緑の歯の変な人どこ~?」

と試合にも出ていない自分のことを探している。
そして、不格好な自由帳やメモ帳、ボロボロのボールにサインを求めてくる。

きっと彼らは僕の名前は覚えていない。
ユニフォームの背ネームはアルファベットで書いてあるから、MIKITA 選手としては認知していないだろう。

それに僕は試合に出ていないことの方が多かった。
それでも彼らは「緑の歯の人が良い」と、純粋な目でサインや写真を求めてくれる。

「緑の歯」だったことで、僕は野球の技術以外の点で少しだけ価値を示せていたのかもしれない。

どんなきっかけであれ、初めて来た野球観戦が楽しい思い出になれば嬉しいし、それが2回目の来場のきっかけや、彼らが野球をやるきっかけになればこの上ない幸せだ。

もちろんマウンドで活躍すればもっとカッコ良かったし、チームにとっては、もっと結果を出して、そして上のステージに行けるような選手になってほしかったんだろうなとは思う。

けど、プレー以外で自分ができるチーム貢献の一つの形というものを少しだけ残せたのかもしれない。

もちろん現役選手に変な色のマウスピースを推薦する記事にするつもりなんてない。
ただ、この文章を読んで、自分のアイデンティティを形づくるきっかけの一つになれば嬉しい。必ずその人にしか示せない姿勢はあるはずだから。

あのときに球場で懐いてくれた子たちは、今は僕の名前も顔も忘れているのかな~なんて思うとちょっぴり悲しいけど、僕の方はこうして長文をしたためられるくらいには覚えているし、当時の光景を噛み締めている(歯の話だけに)。

現在は完全にプレーヤーとして身を引いたため、噂のマウスピースを使うことはまったく無くなった。
今ごろ北海道の実家でひっそりと、けどあの日々の記憶とともに鮮やかな緑色で輝いているはずだ。

「地域に根差すプロ野球」の価値をこれからも考えていきたい。

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(Twitter: @RyugenMIKITA)

※アイキャッチ画像ならびに最後の写真は、昨年サポーターの方が撮影してくれたものです。

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