【再掲】憲法記念日の際考える民主主義

初出:2018/5/3

 今日は憲法記念日だ。この際、民主主義について考えたい。その前に、憲法とはなにか、という問いを検討しなければいけない。社会学者の宮台真司は、憲法と法律は「名宛人」が異なると言っている(注1)。「名宛人」は命令のベクトルの向きを指す。法律の名宛人は我々国民であり、他方憲法のそれは統治権力である(注2)。宮台の指摘によれば、憲法の役割は統治権力を命令する=制約するということになる。例えば、生存権を定める憲法第25条は「健康で文化的な最低限度の生活」をすべての国民に用意しろ、と統治権力に命令しているということである。だから、統治権力は生活保護をはじめとする社会保障を、健康及び文化的及び最低限度の生活を営むことができない国民に対して与える義務がある。
 では、統治権力とはなにか。ここでは、立法権を保有する立法府(国会)・行政権を保有する行政府(内閣)・司法権を保有する司法府(裁判所)をまとめたものをさすとしよう(この議論では、司法府である裁判所には触れない)。ここで重要なキーワードは国民主権だ。国民主権は憲法第1条で定められている命令であるため、統治権力は国民を主権者とし、政治に参加させる必要がある。議会制民主主義を採っている日本では、国政においては、代議士を投票によって選ぶ権利がある。しかし、哲学者の國分功一郎は、国民はその権利でしか国政に参加できない、しかも国政は国会ではなく内閣で多くが行われているという現状を指摘している。國分の著書「来るべき民主主義」(注3)で、國分は小平市の住民投票での自身の経験を通して、政治の多くは行政府で大臣や官僚によって行われているのに、国民は立法府にしか関与できない議会制民主主義の単純な欠陥を指摘している。この國分の鋭い指摘と現在の憲法改正論議を接続してみよう。
 現在、憲法改正の論議が盛んになっている(らしい)。では、憲法改正は誰が主導するべきなのか。もちろん国民である。しかし、現実的に1億2000万人の国民、またはその一般意思が憲法改正を主導できるわけではないので、国民の代表として代議士が国会に設けられている憲法審査会などにおいて憲法改正の論議を行っている(体である)。しかし、実質、憲法改正を先導しているのは安倍首相である。憲法改正の口火を切ったのは当の本人である安倍首相だ。昨年行われた憲法改正を求める集会でのビデオメッセージで、安倍首相は「2020年を、新しい憲法が施行される年にしたい、と強く願っています」と発言している(注4)。安倍首相の悲願が憲法改正であることは多くの人が指摘することだが(注5)、安倍首相は立法府の長(衆議院・参議院議長)ではなく、行政府の長(内閣総理大臣)である。もし、安倍首相が立法府の長であれば、国民の代表として憲法改正を主導することはlegitimate=合法的(適当かどうかは別問題)だ。しかし、國分の指摘に則れば、国民は現在行政府に参加することは出来ないため、安倍首相主導の憲法改正は非合法的だ。
 民主主義が主権者である国民の行政権へのコミットメントを制限しているせいで、憲法改正の論議は国民の主導が不十分である。しかし、もし政府の憲法案が国会を通過した場合は、私たちがこの手で国民投票に参加する権利がある、というよりそれしか憲法改正論議に私たちが関われる機会がない。その時、用心しないといけないのは民主主義における選択の責任は主権者である国民が負わなければならないということである。投票で決まったことは国民の責任である。それが現実なのだ。悲惨な具体例を出すとすれば、民主主義の名における戦争は「国民が戦争に行くことをきめた」ということになる。これは自分たちで自分たちを懲らしめる自殺行為だ。先の大戦では、天皇が主権者であったため、戦争の責任は天皇にあった(注6)。しかし、民主主義社会ではそうではない。(だから、我々国民は「民主主義」という理想に利用されているのかもしれない。)であれば、正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると訴えなければならない。そして、主権者である我々は主権者および責任を負う者であるという自覚とそれに伴う知識を備えなければならない。


注1. 「宮台真司先生、激論!〜多数決は民主主義じゃない!〜」 希望日本研究所
YouTube、 2013/11/26 https://www.youtube.com/watch?v=wdWYWBMfVzg(アクセス日: 2018/5/3)
注2. 宮台は、憲法は国民が守らなければならない、という考えは誤謬であると断言している。事実、憲法第99条には憲法の名宛人が明記されている。憲法第99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」 ここで、国民は含まれていない。また、宮台は、憲法が定める納税の義務に国民は従わなくていいのか、という反論に対して、憲法の「法律の定めるところにより」というフレーズが法律を規定していると指摘している。
注3. 「来るべき民主主義」、國分功一郎、幻冬舎新書、2013年
注4. 「憲法改正『2020年に施行したい』 首相がメッセージ」、朝日新聞デジタル、2017/5/3、http://www.asahi.com/articles/ASK534KF0K53UTFK002.html、(アクセス日: 2018/5/3)
憲法改正に締め切りを決めるところも、早く憲法改正という悲願を達成して名誉を獲得したいという本音が出ているような気がする。
注5. 「安倍晋三首相、憲法改正の信念…祖父、岸信介元首相の遺志を引き継いで」 八木秀次、産経ニュース、2017/7/27、
https://www.sankei.com/politics/news/170727/plt1707270002-n1.html、(アクセス日: 2018/5/3)
注6. 当時、大日本帝国憲法においては、天皇が主権者であったにもかかわらず、天皇は戦争の責任を負っていない。そのかわり、戦争犯罪者として東条英機などが東京裁判によって処刑されたのは知られている。補足だが、丸山眞男は「無責任の体系」という概念を用いて、政治的に無関心な国民が戦争の一つの原因であったことを明らかにしている。(しかし、ここで問題になっているのは政治的な責任であって、実際戦争に行く原因となったものの責任ではない。)

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