「やらない善よりやる偽善」って本当にそうなの?

最近、というかいつも、「やらない善よりやる偽善」とか「やらない後悔よりやる後悔」とかいう言葉を聞く。最初は、たしかに、と思うのだが、でも、それって本当に正しいのか、と考えている人は少なそうだ。だから、一度立ち止まって考えたい。ここでは、「やらない善よりやる偽善」という言葉が正しいのか、をみてみる。「やらない善よりやる偽善」は、少なくとも私には、人がなにか善いことをするときに、ある種自分のいまからすることを正当化する言葉のようにも思えてしまう。それにしても、この言葉自体、定義が曖昧だから、こちら側から定義しないといけない。だから、どうしても定義は恣意的になるが、仕方がない。とりあえず、やってみよう。

やらない善とは?
善をやらないということは、善行を行わないということである。

善行を行うことが善いこと、悪行を行うことが悪いこと、だとしよう。これには多くの人が肯けるのではないか。善いことをしたほうが、自分や他人の状態が改善される。悪いことをすれば、自分や他人の状態が悪化する。

しかし、善をやらないことは、必ずしもそれが悪いことであるとは言えない。善い、悪い、というよりは、まずなにもこの時点ではしていないので、価値判断はできない。つまり、「やらない善」は善いことでも悪いことでもない。ただ単に、やっていないということである。

「やらない善」は、「やらないこと」、「やっていない状態」と言い換えることができる。

しかし、これでは善悪を結果の次元でしか、捉え切れていない。今言ったことは、善いことをすることが、善い結果を生み出す、悪いことをすることは、悪い結果を生み出す、ということだ。そして、善い結果を生み出すことは善い、悪い結果を生み出すことは悪い。だからこそ、「やらない善」はやっていないので、善いあるいは悪い結果がもともと出ない。

では、結果の次元ではなく、意志の次元ではどうか。

善い、あるいは悪いことをやりたい、という意志をもって、ことを行う。こういうことを考えるとき、「やらない善」は、善いことをやりたい、という意志をもったうえで、そのことを行わない、ということだろう。もちろん、「やらない善」は先ほども検討したように、こと自体は行わない。しかし、意志の次元で考えると、善いことをしたい意志を持っている、ということなので、「やらない善」はゼロではない。

「やらない善」とは、善いことをしたいという意志を持っていて、そのことは行わないことである。そして、それはなにも結果を生み出さないので、自分や他人の状態に変化をもたらさない。

そして、問題なのは「やらない善」が善か悪か、ということだが、意志の次元では、善いことをしたい意志があるので、善いことであり、結果の次元では、何もやってないので、価値判断はできない。もし、プラスとゼロを足し合わせれば、プラスである。

やる偽善とは?
やる偽善とは、偽善を行うこと、そのままである。

「偽善」とは「本心からでなく、みせかけにする善事」である。だから、「やる偽善」は本心からでなく、みせかけにする善をやる、ということだ。

善をみせかけにする、ということは、みせるために善行を行うことである。何をみせるのか。自分が善いことをしたいという意志を持っていることをみせるのである。つまり、「やる偽善」とは、自分が善いことをしたいという意志を持っていることをみせるために行う善行を行う、ということである。

しかし、自分が善いことをしたいという意志を持っていることをみせたいと思っている人は、こんなことを考えている。
1. その人は、善いことをすれば、自分は善いことをしたいという意志を持っている、と人からみられるだろう(結果は意志の表出である)。
2. 善行を行うことにおいて、自分が善いことをしたいという意志を持っていることは重要である。

1についてはその通りであって、「やる偽善」を行う人にとって、善行を行う第一の理由(偽善の本質的な理由)は、自分は善いことをしたいという意志を持っていることを他の人にみせるためである。そんなことをする人は、善行(善い結果をもたらす行い)を行えば、自分は善いことをしたいという意志を持っていると、人に思われる、と思っている。つまり、ある行動の結果が、その結果を生み出したいという意志の表出である、という。しかし、これは全くもって間違いである。悪いことをしたいと思っている人が、結果的に善いことをした、ということはあるし、逆のこともある。そして、もし自分が善行を行えば、それで自分が善いことをしたいという意志を持っていることを人に思ってもらえる、という因果関係も成立しない。ある人が結果的に、表面的に善いことを行っていても、それが悪いことをしたいという意志からきたものかもしれない。

2について、「やる偽善」を行う人は、ある行動はある意志に基づいたものであることが重要である、という価値(行動における意志の重要性)を内面化している。「やる偽善」を行う人にとって、善いことをしたいという意志のない善行は重要でない。なぜなら、善いことをしたいという意志を他人にみせるということは、そのことを重要に思っている(自分は善いことをしたいという意志を持っていると、人に思われたい)から、みせる、ということだからである。

しかし、逆説的にも、「やる偽善」を行う人は、その本質において、善いことをしたいという意志のない善行を行う。そして、その結果として、自分が善いことをしたいという意志を持っていることを人に思ってもらうことを想定している。だが、1によると、この想定は間違っているので、「やる偽善」を行うこと自体が本質的に矛盾しているのである。


だから、「やらない善よりやる偽善」が善い、と言うときは、そのまえに「やる偽善」が本質的に矛盾している状態であることは理解しないといけない。「やる偽善」はまず、その目的(自分が善いことをしたいという意志を持っていることを人に思ってもらうこと)を達成できない。そして、何より重要なのは、「やる偽善」が結果とおなじく意志を重要視している、ということである。つまり、偽善というのは、定義上、善いことをしたいという意志を持たない善行であるにもかかわらず、その善行は善いことをしたいという意志に基づいたものである、ということを信じたいのだ。だが、できない。したがって、「やらない善」と「やる偽善」の価値判断、価値比較はできない。「やる偽善」がまずもって成立していないからだ。

反論はあるだろう。例えば、「やる偽善」は根本的に矛盾していたとしても、偽善は結果的に善をもたらすものであり、それゆえに善い、ということである。つまり、「やる偽善」の副産物として、善行がある、という反論である。だが、まず、この反論は、偽善の本質的な矛盾、不可能性を認めている。第二に、「やる善」ではいいのではないか。「やる偽善」と言う必要はない。

たぶん、「やらない善」と「やる偽善」の価値判断が重要である、というよりも、「やらない善よりやる偽善」を主張する人は、ある価値を内面化している、と言うことのほうが重要に思える。その価値は、先述べたように、善行を行うことにおいて、自分が善いことをしたいという意志を持っていることは重要である、という価値である。しかし、意志と結果が結びついている必要はどこにもない。もし、この価値を解体することができれば、「やる偽善」も「やる善」となるのだろう。「やる偽善」を行う人は、善いことを行うには、善いことをしたいという意志を持って、ことをしないといけない、という価値にとらわれてしまい、本質的に矛盾している立場をとってしまっている。しかし、その価値を解体すれば、ただたんに善行を行うこと、「やる善」となる。

そして、「やらない善」を志向する人も救われるのではないだろうか。善いことをしたいと思っているのならば、善いことをしないといけないということはない。善いことをしたいという意志はそれ自体として尊重されるべきである。

意志と結果がつながっているという価値を解体したさきに、はじめて、気軽に、人々が善いことをしたいと思い、あるいは善いことをすることができるのだろう。

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