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先行批評の検討:岡田拓郎『Morning Sun』論(3)

さて『Morning Sun』というアルバムをじっくり聴いていこう。全8曲で構成されている2020年に発売されたこのアルバムは岡田による2枚目のアルバムだ。前作『ノスタルジア』では彼がサポートギタリストを務めるROTH BART BARONの三船雅也と、優河がそれぞれ参加している。一方、『Morning Sun』ではすべての曲で岡田がギターとボーカルを担当している。『Morning Sun』は発売当初から高い評価を得た。だからといって、このアルバムのなにがよいのかを端的に示している批評は見当たらない。たとえば、天野龍太郎の短いレビューは「繊細な音楽だと思う。」という一文から始まる。たしかにそうなのだが、もの足りない。読み進めてみると、こう書いてある。

この穏やかで温かなフォーク・ロック・レコードをリラックスして聴き流しているうちは、そんなこと〔筆者注:「音へのこだわりは徹底している」ということ〕は微塵も感じられないかもしれない。だが、岡田の偏執狂的なこだわりや、ある種の〈狂気〉は、ヘッドホンでアルバムとひっそり対峙し、深く耳を傾けることで、音と音の間隙や音像そのものから、じわりじわりと滲み出してくる。

天野龍太郎、「岡田拓郎『Morning Sun』穏やかで温かなフォーク・ロックからじわりと滲み出る繊細さ、狂気、透徹した意志

そして、アルバムの曲におけるドラムやブレスの使い方、シンコペーション、歪んだギターの音など、「音と音の間隙や音像そのもの」に批評が集中していることがわかる。そして、天野はこう締める、「『Morning Sun』は、そんな力強い作品だ。」と。

岡村詩野の文章はもっと抽象的だ。

岡田拓郎の作品に触れるたびに実感するのは、まさにその音のムードをキャッチすることで生まれる音楽の豊かさというものが確かにある、という、ややもすると鼻で笑われがちのテーゼだ。それは情調とか気配とか、あるいはいっそ「雰囲気」という言葉にさえ置き換えてもいいかもしれない。ただし、そのムードというのは、どんな音楽にもどんな文化にも根源的な成り立ちやプロセスや歴史があるという大前提を理解して初めてぼんやり辿れるものだ。実体のない、“のような、なにか”でしかない。

岡村詩野、「「のような、なにか」を纏うことのニヒリズム
約3年ぶりの新作『Morning Sun』をリリースする岡田拓郎の叡智の杖

「のような、なにか」、雰囲気、ムード。まず、この文章じたいが『Morning Sun』が発売されるまえに書かれており、岡村が「Morning Sun」と「New Morning」だけしか聴いていないという背景がある。そして、だからこそ岡村は抽象的なことを語らざるを得ない。あくまでもこれは批評と化した宣伝文句だからだ。

しかし、両者の文章に共通することは『Morning Sun』というアルバムがじつに奥深く、深淵を潜ませているということについて言及しているところだ。じっさい『Morning Sun』に着目した批評は数少ない。その反面、充実しているのはアルバムが発売されるのを機に掲載された岡田のインタビュー記事だ。とくに柴崎祐二によるものは読み応えがある。岡田の所属レーベルonly in dreams とその公式noteに掲載されているこのインタビューはコロナ禍直前の2020年の3月上旬に収録された。インタビュアーである柴崎の問題意識が如実に現れているという意味で、インタビューの内容は濃密だ。その柴崎の問題意識は「社会」というものに向けられている。

「本当はポップ・ミュージックなんてやりたくない」と嘯く岡田が送り出すポップ・ミュージックは、これまで以上に純音楽主義的であり詩的でありながらも、同時に、どうしようもなく社会的なものでもある。

柴崎祐二、「Okada Takuro オフィシャルインタビュー」序文より

インタビューでは『Morning Sun』における緻密な音づくりの様子やアルバムの制作背景に加え、音楽と社会との関わりや音楽が生み出す「冷静や成熟」、そしてJ-POPあるいは音楽産業に対する違和感について語られている。天野のように岡田の音楽性や音楽的な影響に目が向けられるなか、柴崎の社会的な切り口は岡田拓郎を「孤高の音楽家」というイメージから切り離し、「どうしようもなく社会的な」ミュージシャンとしての岡田を描く。柴崎は『Morning Sun』が純音楽主義的 — 繊細で力強く「いい曲」— であると同時に、ある特定の社会的な状況のなかで、歴史を引き継がれてつくられたものであるという、いわば当たり前のことを強調している。

"ルーツミュージシャン" としての岡田拓郎を立ち上がらせるためにはどちらも必要だ。岡田個人の音楽遍歴というルーツ、過去をもとに存在する現在における社会と、さらに言えば日本の(音楽の)歴史としてのルーツ、そしてその二つのルーツの交点。その交点を探るためにまずは『Morning Sun』の詳細な分析が不可欠だ。そうしないと、わたしたちはあらゆる形容詞を用いてこのアルバムの、岡田拓郎の「のような、なにか」を説明しつくそうとすることに固執してしまう。

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