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「あけましておめでとう」が嫌いだ

元日の朝、起きてすぐに「あけましておめでとう」という声が聞こえてくる。一応、「あけましておめでとう」と返すのだが、もううんざりだ。ゆっくりとした朝を切り裂くような「あけましておめでとう」は僕にとっては邪魔でしかない。

というのは言い過ぎかもしれない。しかし、「あけましておめでとう」が嫌いなのはたしかである。もっと正確に言うと、「あけましておめでとう」と言われたら、「あけましておめでとう」と返すのが嫌いだ。でも、なんでこんな挨拶ひとつを迷惑だと思ってしまうのだろう。まあ振り返ってみれば、子供の頃、親戚の家で大勢が正月を過ごしていたとき、みんなそれぞれが会った人には「あけましておめでとうございます」と挨拶していることがなにか気持ち悪かったことを記憶しているというよりは、体で覚えている。みんな、同じ言葉で挨拶しあうことに違和感を抱き、それ以来自分がそれに同調することができない。しかし、親戚の大人に「あけましておめでとう」と言われて返さないと愛想が悪いということで、僕は僕の親に「あけましておめでとう」と返しなさいと散々言われた。

口頭での挨拶だけでなく、書かれた「あけましておめでとう」もそう。元日に郵便箱に入っている年賀状を取りに行くのはワクワクするが、いざ見てみると同じようなことが書いてある。「謹賀新年」、「新年あけましておめでとうございます」、「本年もよろしくお願いします」。一応、親からはそのような定型文が印字されている年賀状を渡され、年賀状を送ってきた知人には年賀状を返したほうがよいと言われ、相手の名前と住所、定型文とは違った新年の挨拶とコメント、そして自分の名前(自分の名前の漢字を間違えられたら、ペンを強く押し付けて、太字で書いた)を書いていた。

しかし、この頃は年賀状の数も減ってきた。元日時点で僕に届いた年賀状は0通。それは僕にとっては良いことなのかもしれない。インターネットやSNSの普及により、年賀状という非効率的な伝統が朽ちつつあるなか、その一方でSNSで新年の挨拶をすることが普通となった。ラインで来る個人的な「あけましておめでとう」やフェイスブックやインスタグラムでの公の「あけましておめでとう」はパブリックに送る年賀状の定型文とペンで書く個人的なメッセージの両方の役割を果たしている。つまり、公の「あけましておめでとう」に対しては「あけましておめでとう」と返さなくてもよいが、私的な「あけましておめでとう」には返さなくてはならない。少なくとも、返さなくてはならないという社会的な礼儀がある。そういう意味では年賀状が減ってきたとはいえ、その代替であるラインやダイレクトメッセージによる新年の挨拶は結局対応しないといけないようだ。

けれども、僕は口頭でもラインでも「おはよう」と言われたら「おはよう」と返すし、「ありがとう」と言われたら「どういたしまして」と返す。しかし、一年の始めだけは違う。「あけましておめでとう」と言われたら、なぜか「あけましておめでとう」と返したくない。嫌いなものは嫌い。理由はない。しかし、「あけましておめでとう」と返さないと、この人は愛想が悪いぞ、この人は礼儀ができていない、と思われてしまう。それは僕が「おはよう」と挨拶して、返してくれなかった相手に思うことだから、これはなんとかしなくては。そこでこんなことを思った。

「あけましておめでとう」を省略した「あけおめ」を使おう。そうすれば、将来「あけましておめでとう」と言うことはないだろう。若者の言葉を創出する力はものすごいと感心してしまう。

これで今後の正月を過ごせれば良いのだが、そういうわけにはいかない。なにせ「あけおめ」はあくまでタメ口であって、目上の人に使ってはまた変なことを思われてしまう。では、どうすればいいのか。「あけまおめで」や「あけましおめでと」も失礼に思われてしまう。いや、もっと簡単な方法があるではないか。単に「おめでとう」と年の始まりを祝えばよいのだ。誰かが誕生日のとき、何かで勝ったとき、「おめでたい」とき、僕は戸惑いなく「おめでとう」というわけだから、年の始まりという「おめでたい」ときに「おめでとう」とそれを祝うことはなんら不自然ではないし、気にも障らない。

こんなことを初風呂で考えていた。わざわざこれをnoteにあげるのであれば、水に流せばよかったのだが、そうもいかなかった。実際こういうことを考えて正月を迎えている人もいる。社会のルールに上手に従って生きている人が。

では皆さん、おめでとうございます。

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