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樹をみつめて、自分をみつめて

 私が初めてフクギという木の種類を知ったのは、中井久夫の「樹をみつめて」というエッセイを読んだときだ。中井が書く独特で美しい筆致は、エッセイの冒頭から私を魅了させたが、それ以上に私の目をひいたのは、中井が植物に見出す人間の愚かな側面である。その愚かさは次の中井の文章に精緻に描き出されている。
「私はふと思った。植物界を人間と動物の活動の背景のようにみなしてきた。植物に注目するのは、もっぱら人間のために役立つかどうかという点からである。」

 私たちは人間の役に立たない植物には注目しない。フクギという木は人間の役に立たない木の種類の一つである。沖縄で多く街路樹として植生されているフクギは目立って美しいとは言えず、熟した実は潰れると悪臭を放つので、かえって人間にとっては不利益だ。しかし、沖縄では名前の通り、福を招く木として親しまれている。福を招くと言われてる木が人間の役に立たないというのは矛盾しているように思えるが、中井は役に立たないことを肯定することで、この矛盾を乗り越えようとする。

 私は自分のことを役に立たないと卑下し、自分で自分のことを追い込んでいるとき、このエッセイに還るように心がけている。私はあることに気がとられていると、つい自分のことを忘れてしまうことがある。それは熱中できることがあるという点においては素晴らしいことだと感じるが、自分のことを気にかけないこともかえって熱中できることを熱中できなくするかもしれない。To Do リストの中に「自分」という項目を入れるべきであることはわかっているが、入れたとしてもチェックマークをつけないだろう。

 だが、最近はいつもとは違って、気が散ることが多くなった。あることを始めるにもすごく時間がかかってしまう。いざ取りかかればこっちのもの、と感じるのは束の間で、短時間で集中力が切れてしまう。取り組んでいることには興味があるのだが、どうしても他のところに気が行ってしまう。しかし、取り組んでいることに熱中できないのにもかかわらず、結局自分の体調や精神状態について忘れてしまう。気が様々な方向に分散されているだけで、自分の方に向いているわけではない。

 たまに、優しさを体現した人を目にしたり、一緒にあることに取り組むことがある。そんなときに思うのは、その人がいつどこで自分のことを気にかけているのかがわからないということだ。優しい人は自分よりも他人のことや周りのことに気を配っていることが多いので、自分のことを気にかけていないと思いがちだが、自分のことをいつまでも気にかけないことはできない。自分のことを考えないと、人は死んでしまう。食事は取らないといけないし、眠らないといけない。周りのことには気を配るかたわらで自分のことも考えるような人になりたいと憧れるということは、自分は絶対に優しさを体現できないことを示している。憧れとはそういうものだ。

 しかし、もっと重要なことは、私が優しさを体現する人に憧れを持っているとき、私は無意識に自分とその人を比較してしまっているということだ。その比較の結果によって生じた劣等感は、さらに私が自分のことに気を配らないことを助長している気もする。あることに集中して取り組むことができないと同時に、自分のことも考えられないという二重の不可能は徐々に私をむしばんでいった。そんなことを考えているとき、中井の「樹をみつめて」を時間をかけて、文字を正確に追っていくと、何もできていない自分が少しは救済された気がする。

 中井の「樹をみつめて」はこの二文で終わっている。
「何の役に立つのかという天動説的観点から離れ、役に立たないどころか悪臭を放つ実を降らせるフクギの、いわば存在自体を肯定して、福をもたらすとするのが沖縄の心ばえである。おそらく無用にみえるものの存在を肯定すること自体が福をもたらすのだろう。」

 ここで、中井はフクギという木を通じて、私たちが生産性の観点から植物を捉えていることの愚かさを指摘しながら、福という超現実的な概念を役に立たないもの、そしてそれを肯定する私たちの可能性に託している。つまり、中井は役に立たないものを肯定して、さらに役立たないものを肯定する人たちのことも肯定している。私が「樹をみつめて」にひかれる最大の理由はここにあると思う。それは、中井が役に立たないものどうしが関係する可能性を提示しているということだ。自分は社会のために役に立たないと思っている私が、私と同じようなことを思っている人たちのことを肯定することによって、私自身も肯定される。役に立たないと思っている人どうしで互いに肯定する関係性が築かれたら、それは福という超現実的な概念を現実的な現象に置き換えることができたわけだ。

 中井のエッセイを読んでから、私は自分の周りにある木やその他の植物をより意識的にみるようになった。しかし、それは私が毎日夜空の月や星をじっとみつめることと少し異なっていた。夜空の月や星は美術館の絵画のように動かないが、木はその枝葉が風でなびいたり、まれに幹が軋んだりする。その木の動きは「夏の陽を半ば透し、しかも葉の濃密な重なり合いは柔らかな濃淡を生んで、その影模様がそよ風の吹くままに変転した」クヌギの樹からもわかるように、木の周りの景色をも変化させる。そのとき、枝の間から射してくる光は自分に当たるのかもしれないし、他のものに当たるのかもしれない。しかし自分の方に光が当たっていないとしても、それは陰で休める貴重な時間であることには変わりない。

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