福島教育研究:基準の問題

 実際の事例を検討してみることにしたい。
 福島県の義務教育課程におけるカリキュラムは、「福島県教育総合計画」というものをもとに作成される。県は改定を重ね、現在では第6次福島県教育総合計画(以下、「第6次計画」)(注1)のもと各学校でカリキュラムが作成されている。もともと、第6次計画は平成22年(2010年)度から26年(2014年)度までの計画として策定されたが、平成23年3月に発生した東日本大震災と原発事故による影響で、平成25年度より改定版の第6次計画(以下、「改定版第6次計画」)(注2)が用いられている(なお、期間は平成32年度まで)。以上の経緯を踏まえると、第6次計画—すなわち福島県の小中学校のカリキュラムのもと—は、震災と原発事故、そしてそれらによる影響、によって改定をある種強いられたことになる。この改定は、何を教えるべきか/どのように教えるべきかを変えなければならなかったことの表明である。なぜなら、カリキュラムは何を教えるかとそれを教えるための方法を定めた文書であるからだ。それを変更するということは、教材とそれを教える方法を変更したということと同義であると捉えてよいと考える。しかし、なぜこれらの出来事によって何を教えるか/どのように教えるのかを変更する必要に迫られたのか(注3)。つまり、私(たち)の疑問は、震災と原発事故という出来事はカリキュラムを変更する基準にあてはまるが、その他多くの出来事はあてはまらない、ということに存在する。問いは2つある。一つは、出来事はカリキュラムを変更する基準となりうるか。その他どのようなファクターが基準になるか。もう一つは、どのような基準で、カリキュラムに対する、あるファクターの影響力を決めるのか。これらの問いを福島県の教育計画に即して論じていきたい。

1 計画の共通点と相違点=変更点
 まずは、もともとの第6次計画と改定版第6次計画をそれぞれ概観し、異なるところ=変更した点を見つけていく。改定前の計画はその基本理念を、福島県の未来を築いていく上で重要/必要だとされる「”ふくしまの和”で奏でる、こころ豊かなたくましい人づくり」(第6次計画、p.13)と掲げている。この理念に基づく形で、第6次計画は基本目標を三つ掲げる。その三つは、要約すると、(i) 自立した人間の育成、(ii) 学校、家庭、地域の一体化、(iii) 豊かな教育環境の形成、である(同、p.14-7)。
 特筆すべき点は、この計画に「教育をめぐる社会経済情勢の変化」という章があるということだ。この章では十の「社会経済情勢の変化」の例が挙げられており、それらが教育を通じて対応すべき課題として示されている。たとえば、社会経済情勢の例の一つとして取り上げられている「国際化、グローバル化の進展」の節では、「国際標準(グローバルスタンダード)のもとでの競争の時代が到来するとともに、異なる文化との共存と国際社会の発展に向けた国際協力が求められて」(第6次計画、p.6)いるという理由から、「国際社会を主体的に生きる力をはぐくむ」(同、p.6)ことが必要であることを確認し、それを教育として実施するために先ほどの基本目標である 「(i) 自立した人間の育成」が重要だという。もう一例挙げるとすると、「家庭や地域の教育力の低下」という節では、「近年、核家族化などが進行し、人と人との関係の希薄化や家庭や地域の教育力の低下が指摘されてい」(同、 p.9)ることから、課題として「家庭、地域の教育力の回復を支援するとともに、地域ぐるみで学校を支援し、子どもの育ちを支える体制」(同、 p.9)をつくることが挙がっている。無論、この課題は基本目標「(ii) 学校、家庭、地域の一体化」によって解決が目指されている。上記の例をみるように、この計画の基本目標は現代の社会的・経済的な状況と関連づけられており、これらの状況によってつくられている課題に対応するためにカリキュラムが策定されている。
 また、この計画は県民アンケート調査の結果をもとに、計画の課題や弱点を発見し、それをカリキュラムに反映している。たとえば、各施策の今後の重要性についての質問に対しては、94.3%の回答者が「いじめ、不登校の問題の対応」が「重要」または「どちらかと言えば重要」である、と回答している (第6次計画、p.19)。その結果、カリキュラムに「道徳教育の充実」や「少人数教育によるきめ細やかな指導」が、いじめ、不登校の問題に対応する施策として導入されている。アンケート調査を通じて、多数の県民の意見をカリキュラムに取り入れることは、県民の意見がカリキュラムを変更する一つの要因となっていることを示す。つまり、第6次計画を外部から形成している要因は社会経済情勢とアンケート調査を通じた県民の意見である。これが私(たち)が考えている問いの一つである 「(1) どのようなファクターがカリキュラムの変更に影響を与えるのか。」の福島県の暫定的な答えである。
 では、改定版の第6次計画に目を移してみよう。改定版の、改定前からの最大の変更点は、東日本大震災や原発事故によって「教育を取り巻く様々な状況が計画策定時の想定を大きく超えて変化している」(改定版第6次計画、p.1)ことにより、それに対応するための手段が変更したということである。改定前の計画と比較すると、どちらの計画も基本理念である「人づくり」を一貫して採用しており、その背景にある「社会経済情勢」も大幅な変化がみられない。ただ、たとえば「地球環境問題の深刻化」という節は改定前の計画にもあったにもかかわらず、改定版では原子力の代替としての再生可能エネルギーの推進の重要性が指摘され、「再生可能エネルギーなどの先端技術を本県の子どもたちが担えるよう、その基礎となる理数教育」(同、p.8)をカリキュラムに追加している。また、「安全・安心の確保の必要性の高まり」という節では、改定前は地震などの自然災害は考慮に入れていたものの、その対策として学校といった建物の耐震化という教育との関連がないことの列挙にとどまった。だが改定版では、防災・減災対策や放射性物質への言及が追加された(同、p.9)。これに加えて、(A)「放射線教育推進支援事業」と (B)「防災学習推進支援事業」の二つが改定前の計画には記載されてない改定版の計画に記載されている。(A) については平成24年度から開始された「発達段階に応じた放射線教育の推進」を事業化したものである。この事業は、「児童生徒の発達段階に応じた放射線から身を守る方法等に関する放射線教育を推進し、科学的な知識とそれに基づく判断力・行動力を身につけさせます」(同、p.32)、という内容のものである。(B)については、「自分たちを取り巻く身近な自然環境、災害や防災についての正しい知識を身につけさせるとともに、災害発生時における危険を理解し、自ら考え判断し、行動する力を育成するなど、防災教育の充実を図ります」(同、p.32)との記載がされている。 
 
2 共通の(改定前からの)問題点
 改定版第6次計画でも、そのときどきで存在する社会経済情勢の変化と県民の教育についての意見や希望がカリキュラムに影響を及ぼす要因として機能していることに変化はない。したがって、社会情勢の変化と県民の意見という、何を教えるかを決定する要因は通じて重要だと認識されている。しかし、社会経済情勢の変化については、なぜあの10例なのか。有限個の例を挙げることに対して、そしてこれらの例の内容についてとりあえずは否定をするつもりはないが、この10例のみが選ばれたことに対して恣意性が選択の背景にあることを考えざるをえない。もっとあった/ありすぎなのではないか。にもかかわらず、これらの例のみが教育計画に影響を及ぼすことがなぜ重要なのか。これらの例のみをカリキュラムの考慮に入れることで何をもたらすのか(注4)。何か外部の条件や社会的環境の変化によって教材を変えることについては否定はしないが、それを選択する過程の中で、選択する人の好みや恣意性が入り込んでいると考えられる。これについては、デューイが、教材を社会的環境のもとで選択することを重要視しているが、どの社会的環境—社会的環境といってもさまざまな要素が存在する—の側面を選ぶのか、ということには言及していないことと一緒だ。「(i)学校での学習活動の材料は、伝達することが望ましい一般的な社会生活の意味内容を具体的かつ詳細に表現する。… 教材は、末代まで残すべき文化の本質的な要素を教授者に示すのである。」(注5)「伝達することが望ましい一般的な社会生活の意味内容」はどのように決めたら「末代まで残すべき文化の本質的な要素を教授者に示す」というデューイの考えるカリキュラムの目的を達成できるのか。そこまで深く問うていないことがデューイの議論の欠陥である。「伝達することが望ましい一般的な社会生活の意味内容」の基準とはなにか。
 とすると、次のような可能性を考えることができる。私が先述した「この計画の基本目標は社会情勢と関連づけられており、情勢に対応するためにカリキュラムが策定されている。」は、第6次計画のひとつの捉え方であるに過ぎず、あくまでも社会情勢は基本目標の原因・影響要因であるとは限らない。なぜなら、どの社会的環境にするかという基準を示さない限り、教育の目標がア・プリオリに選択され、それを正当化する手段として社会情勢が恣意的に選択されたのではないか、という可能性が消えないからだ。例えば、基本目標である 「(i) 自立した人間の育成」はもともと達成されるべき目標としてこの計画の策定者の頭の中にあって、それに正当な根拠を付け加えるために「国際化、グローバル化の進展」、「国際標準のもとでの競争の時代」の到来、「国際社会を主体的に生きる力をはぐくむ」ことが必要、というのを「後付け」したという可能性である。このような可能性を消去するためにも、社会的環境を選択するための基準や根拠が必要だ。
 県民の意見という要因についてはどうか。県民の意見を集めた手段であるアンケート調査の対象者を確認すると、対象者は県内在住の満15歳以上である(第6次計画、p.86)。そうすると、次の2つの問題が浮かび上がる。(1) なぜ対象者は県内在住の者に限られるのか、(2)なぜ調査対象者は満15歳以上でなければならないのか、の2つだ。(1)はこのように言い換えることもできる。なぜ県の教育のカリキュラムは県民が決める/影響を与えるものだといえるのか。(2)はカリキュラムは誰が決めるのか、という問いに直接的に関わってくる。満15歳以上というと、カリキュラムの対象である小中学生のほとんどはそれを満たしていない。したがって、(2)もこのように言い換えることが可能だ。なぜカリキュラムの対象=被教育者である生徒がカリキュラムを決める/影響を与える権限を持っていないのか。しかも生徒の保護者のほとんどは年齢的にアンケート調査の対象の候補であるが、対象は生徒の保護者に限っていないため、明らかに県は生徒あるいは生徒の保護者のみにカリキュラムに影響を及ぼす権限を与えていない。だれがこの権限を持つべきなのか。

3 改定版の問題点
 一方、改定版は改定の契機が東日本大震災や原発事故という出来事であるゆえに、それらの出来事がカリキュラムを変更する基準内であることが示されている。なぜこれらの出来事によって第6次計画が変更されたかというと、先述した通り、「「教育を取り巻く様々な状況が計画策定時の想定を大きく超えて変化している」ことにより、それに対応するための手段が変更した」からである。なにかの状況に対応するということは、その状況の中でも生活できるように、教育が生徒らを成長させることである。つまり、カリキュラムを変更する基準は(カリキュラムそのものと同様に)、教育の目的を示すものとなる。社会経済情勢の変化や突発的な出来事を反映したカリキュラムによる教育の目的は、それらの状況下においても生徒らが生活できるようにするということになる。しかし、それらの状況がカリキュラムを変更する前に教えられていたことを教えなくなったあるいは教える資源を減らしたことを正当化することはできるのだろうか。
 ある出来事Aの結果、aを教えることがカリキュラムに追加されたとしよう。そのとき、追加される前まで教えられていたbが教えられなくなったあるいは教えるための資源(特に時間)が減少した、というようなことがある。問題は、出来事Aがbを教えないことを正当化できるのか、ということだ。考えてみると、aを教えbを教えないということは、aの方がbより教える価値があるということになる/なってしまう。出来事Aが起こる前まではbが教えられていたので、bの方が教える価値があったわけで、なぜその価値の優劣が逆転したかというと、出来事Aによって(そしてそれの影響によって)、aを教える目的の価値がbを教える目的の価値を上回ったからだ(教える価値ではなく教える目的の価値が、である)。aとbを教える本質的な価値は同等であるが、ある特定の基準に照らすと、aとbを教える目的の価値に優劣をつけることは可能だ。
 喩えるとわかりやすい場合がある。私は今日の夕食に何を食べようか迷っているとしよう。私が同等に好きなラーメンか天丼で迷っている。迷っている最中で、明日ラーメンが世界からなくなるとわかるという出来事が起こるとしよう。明日からラーメンが食べられなくなるのであれば、ラーメンを食べたいと思うのが「自然」だろう。だから、夕食はラーメンに決める。ラーメンを食べたら腹が満たされるから、その直後に天丼を食べることは出来ない、もしくは少しの量しか食べることができない。このとき、私は天丼よりラーメンを食べることを優先した。今日の夕食において、ラーメンの価値を天丼の価値よりも高く評価した。なぜかというと、明日からラーメンが食べられなくなることがわかったからである。しかし、この理由が天丼を食べないことを正当化するのか。
 もちろん、この喩えは個人的な選択の場面なので、天丼を食べないことを正当化をする必要はないのだが、私と同じようにラーメンと天丼が同等に好きな他の人と一緒に夕食を食べる場合、すなわち他人が含まれる社会的な選択の場面ではどうか。その人が、明日からラーメンが食べられなくなるという事実を差し置いてでも、今日の気分で天丼が食べたいとなる。その人は今日の夕食において、天丼の価値をラーメンの価値よりも高く評価した。私にとって、ラーメンを食べることの目的/根拠は明日からラーメンが食べられなくなるから最後にラーメンを楽しもう、といったところだろう。だが、私と一緒に夕食を食べる人の、天丼を食べることを選択した目的/根拠はその人自身の気分を満たすためである。たとえ私が明日からラーメンが食べられなくなることを力説したところで、他の人がそれによって天丼を食べないことにはならない。なぜなら、その人にとってはその人自身の気分を満たす方が価値があるからだ。私はその人をラーメン屋に連れているためには、明日からラーメンが食べられなくなることがその人の気分を満たすことより重大である、価値があることを証明する責任があるのだ。つまり、社会的な選択において、たとえ出来事Aがaという選択肢に目的あるいは根拠を与えたとしても、その出来事によって生み出された目的の価値がほかの目的の価値より優位にあるという根拠が必要なのだ。
 放射線教育や防災教育といったものは本質的に重要であると思われるが、震災や原発事故といった出来事から生まれてくる教育の目的(たとえばそれらの出来事による社会の変化に生徒らが対応していくため、という目的)が、ある基準に照らして、ほかの出来事よりも価値があると判断できたとき、はじめてそれらが相対的に重要であることになる。なぜなら、それらを教えることで教えることができなくなった/教える資源が減少した対象も同等に本質的な価値を持ち、その対象を教える目的も別で存在するからだ。このとき福島県が使った基準は、生徒が震災や原発事故など2011年3月あたりに起こった出来事とそれによる社会的な情勢の変化により対応できるような教材を採用することである。放射線教育や防災教育をした方が、それを教えることによって教えられなくなった対象を教えるより、生徒らが今後の社会の状況にうまく対応できると考えたのだ。この基準が間違っていると一概に否定することはできないし、さらにいえば望ましくあるのかもしれない。だが忘れてはならないのは、この基準はある出来事(ここでは「震災や原発事故など2011年3月あたりに起こった出来事とそれによる社会的な情勢の変化」)に基づいているということである。この基準を用いれば、必ずや前まで教えていた対象は教えることの対象外となる可能性が高くなるだろう。だから、この基準は教えられなったものから目を背けているということからすれば、もっとも適切なものではないだろう。一方で、絶対的で固定された基準、すべての対象を包容できるような基準などないような気もする。したがって、次回以降デューイなどの思想を何らかの形で用いて、議論している「基準」といったものが可能なのか、可能であればどのように可能なのか、を調べてみる。

4 問いは3つ
 (1)何かを教える目的のベースとなっている部分はどのように決定するべきか。(2)そして、だれが決定する権限を持つべきか。(3)何かを教えて、その代わりほかの何かが教えられなくなるとき、何かを教える目的とそのベースとなっているもの(たとえばある出来事)が、何かを教えることを正当化すると同時に、他の何かを教えないことを正当化できるか。そして、それを正当化するとき、目的の価値の優劣をつける必要があるが、そのときの基準は可能か。(3a)可能であれば、どのようにして可能か。(3b)可能でなければ、正当化できないとなって、何かを教えないことの倫理的な問題(暴力性)が発生する。今度はそれを別の方法で解決することを考えなければならない。


注1:改定前の第6次福島県教育総合計画については、福島県のホームページ http://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/70012a/6jityoukeil.html
(最終閲覧日:2019/1/27)から閲覧・ダウンロード可能。
注2:改訂版の計画は、http://www.pref.fukushima.lg.jp/site/edu/tyoukeil.html (最終閲覧日:2019/1/27)から閲覧・ダウンロード可能。
注3:本稿では、どのように教えるのかという方法論については議論しないし、私もそれほど関心があるわけではないが、重要なことではある。
注4:この議論については、立岩真也が『不如意の身体』で、ヌスバウムの十個(これも十個!)の「capability(可能力)」—彼女の考える、人間が規範的に達成することがよいとされる基準—を挙げ、それに批判を加えていることから発想を得た。ここで立岩はこのようなことを言っている。

 私は「よいもの」を具体的にあげないことがよいことである—センについて、彼がリストを示さないことが、よく肯定的に紹介される—といった立場には立たない。ただ、こうして具体的にあげられるものが、なぜこの十個なのか。ずいぶん筆者〔引用者注:ヌスバウム〕の好みが現われているようには思う。
 それでもそれらは、それ自体としてわるいものではないだろう。そして、これらが可能になる条件・環境が設定されるべきであるということであれば、その後どうなるかは個別の事情や好みに委ねられるから、その限りではあまり異論は出ないかもしれない。だが、ヌスバウムの場合には、各人が実際にそれを達成できることが望まれている。個々の基準を満たすことが求められる。
 しかし、実際には達成の限度がある。できることとできないことがある。その場合に、達成されるのがよいとすることは何をもたらすか。なぜそのようなことを言うのか。素朴で基本的な疑問はここにある。どのような場所からヌスバウムはものを言っているのか。
(立岩真也、『不如意の身体』、青土社、2018年、p.172-3。)

注5:デューイ、『民主主義と教育(上)』、松野安男訳、岩波文庫、1975年、p.287。


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