グローバルとローカルの間(はざま)を足掻く

 日本人初のミネルバ大学(Minerva Schools at KGI)入学者である日原翔は、出願する大学を選ぶ際、アメリカの大学のみに固執せず、「校風やカリキュラムといった学校のコンテンツ」が良ければ、日本を含めどこの国の大学でも構わなかった、と発言している(注1)。この日原のコメントは、留学の意義が曖昧になっている今を象徴するように思える。《もはや大学がある国は関係ない。大学の本質こそが重要なのだ。》 国内大学に国外から教授が招聘され、母国語でのアカデミズムが確立されている日本から留学する意味は何なのだろうか。我々はどこに留学の意義を見出すべきなのだろうか。結論から言うと、留学の意義を理解していない人こそ留学するべきだ。
 留学をすることに対しては賛成の意見と反対の意見とが存在し、それぞれある程度の説得力を持つ。留学への反対意見として一つ挙げられるのは、自分の国で起きていることよりも、自分とはあまり関係のない国で勉強することを優先することにおける自国への背徳だ。留学に反対する人から見れば、自分の足元にある小さな花を踏み潰して、遠くにある派手な色をした大きな花弁のついた花を育てるようなものだ。しかし、遠くにある派手で大きな花を見たあとでないと—相対的に—足元にある花の可憐さを感じることができないのではないか(注2)。そう、私は問いたい。私のこの問いの正当性を論(argument)として確認していきたいのが、本稿の目的である。
 留学に対する賛成・反対の議論を簡略化すれば、自分はグローバルな人間なのかローカルな人間になりたいのかという議論に収斂される。グローバルな人間というのは、簡単に言えば、自分の生まれ育った国や文化(これが曖昧な人も多いが)から離れ、「国際」を自分の活動の主要な場とする人のことで、逆にローカルな人間は、自分の生まれ育った国や文化にとどまり、「国内」や国より規模の小さなコミュニティを活動の場とする人のことだ。留学することに賛成する人はグローバルな人間を志向し、留学することに反対する人はローカルな人間を志向するという前提で論を進めたい(注3)。
 ここで重要なのは、グローバルな人間はローカル性を前提に、ローカルな人間はグローバル性を前提に存在しているということだ。参考にするのは、社会学者・小熊英二の評論「図式はナショナリズムとの共犯関係」だ(注4)。小熊は、ナショナリズムとグローバリゼーションは「共犯関係」にあると指摘する。どういった関係かといえば、ナショナリズムはグローバリゼーションの条件であり、グローバリゼーションはナショナリズムの条件であるような、いわば補完関係だ。ナショナリズムはグローバリゼーションなしでは生きていけないし、グローバリゼーションもナショナリズムがなければ死んでしまう。なぜなら、ナショナリズム(自国の発展を優先する考え)は他国の目(小熊のいう「グローバルな他者接触」)があるからこそ成立するものだ。例えば、黒船の来航という鎖国中の日本とアメリカとの接触は、日本における蒸気船の開発を促進させた要因である。また、グローバリゼーションも自国と他国との差や違い(小熊のいう「段差」)がないと成立しない。グローバリゼーションの象徴の一つである自由貿易は、国それぞれの得意な生産物及び加工物があるからこそ成立する。そして、その生産物・加工物の違いはナショナリズム国家が生み出す。
 小熊の議論を敷衍すれば、グローバルな人間はローカル性なくしてグローバルたりえないし、ローカルな人間もグローバル性なくして活動できない。よく留学への賛成意見として、人や文化の多様性を体験することで様々な視点から物事を観察できるということが挙げられるが、あくまでも多様性の立地環境がグローバルな環境なのであって—勘違いしてはいけないのが—多様性の発生原因はナショナリズムにあるということだ。頻繁に言われることだが、グローバル化が極度に進めば、人種や言語、文化の隔たりが無くなり、国籍(ナショナリティ)といった概念は失われる。そうなれば、多様性というものも失われる。だから、グローバルな人間はつねにローカル性を享受しなければならない。また、ローカルな人間もグローバル化の現実を直視し、グローバリズムがなければナショナリズムは自国第一主義だけが残ってしまう。そうすると、グローバルな人間であると思っている人こそ自分の所属するローカルなコミュニティを見つめ直す必要があり、ローカルな人間であると思っている人こそ留学に行ったほうがよい(留学しないとしても、グローバル性があるからこそ自分がローカルな人間でいられるということを理解したほうがよい)ということになる。それが、「グローカル(glocal)」という造語の真の意味だといえる。
 足元の小さくて可憐な花は、実はその周りに咲いている大きくて派手な花に守られている。大きくて派手な花は動物に見つかりやすく、小さい花より先に彼らに食べられていまう。だから、足元の花を享受する私たちは犠牲となるその周りの花にも感謝し、目を向ける必要がある。また、遠くの大きくて派手な花に見とれている私たちは、大きくて派手だという分かりやすさを一旦手放し、小さくて可憐な花の持つ分かりにくさや含蓄を上手に読み取って上げなければならない。そして、それらを読み取れるのは花の近くにいる私たちしかいない。


注1. 日原翔、「ミネルバのふくろう(2)世界中から才能を集める、ミネルバ大学3つの選考ポイント」、日経カレッジカフェ、http://college.nikkei.co.jp/article/100040118.html(アクセス日:2018/8/25)。
注2. 「足元の花」という的を射た表現はある人から借りてきたものだ。
注3. :留学したからといってグローバルな人間になれるわけではない。なぜなら、留学といっても日本以外のある国で学ぶだけであり、あくまでその国の視点から物事を見ることができるだけだ。
注4. 小熊、「図式はナショナリズムとの共犯関係」、http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/report/book/zu.htm(アクセス日:2018/8/25)。一部の高校現代文の教科書では「グローバリゼーションの光と影」という題で掲載されている。

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