見出し画像

100記事目指してなるたけ毎日更新!その89、生きているのに死んでいる状態を考える

Ignition.挨拶

皆さんいかがお過ごしでしょうか?

考えることが哲学よりになってきた今日このごろ。

どうも僕です。

本記事は私、Evolution LoopのMμLT1(まるち)が100記事完走を目指してゆるーく書いている記念すべき89記事目になります。

この記事から100記事目くらいまで哲学的な記事になりそうです(;・∀・)

それでは今日も進化の為に書いていきます。



1st.最低限の文化的な暮らしが出来ていない



 日本国憲法第二十五条にてこんな記載があります。結構有名なやつですね。

第二十五条
 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 とのことです。

 まぁ昭和42年5月の朝日訴訟最高裁判決で最高裁が国の努力目標なんで裁量の余地はあるよって結構やばい判決だしちゃってるんですけどね……

 人という生命体として「生きてはいる」が人間という文化的生命体的には上記の憲法二十五条にかすりもしていない生活をしている人がある意味では生きているけど死んでいる状態なのではと乱暴な考え方なんですがそう思います。


2nd.他人の記憶から消える



 僕たち人間は誰かの観測を受けて初めて「自身が世界に認識されている」という生きてるという感性にも似た実感を持ちます。

 逆に言えば、自身が観測していない物に関しては「いないも同然」です。乱暴な言い方をすれば死んでいる(観測できる範囲に存在しない)のと同じです。

 ここでネックになるのは、「一度他人に知ってもらう」ことによって他人に自分という存在を生まれさせて「他人に忘れられる事」によって自身は他人視点から見ると死んでいるという概念と似ているのではないか?という主張です。

 ある意味上記の状態も「生きている(存在はしている)けど死んでいる(第三者からは存在しているか不明)状態」と言えるのではないでしょうか?



3rd.思考の放棄



 我々人間は幸運なことに脳がとても発達し「考える行動」がとても特異な種になっています。

 今回は脳に障害のある方々は例外とさせていただきますが、それ以外の健常者の人で「思考を放棄している人」はある意味では生きながら死んでいるのではと疑問に思うことが多々あります。

 ○○という有名な方が苦言を呈したから自分も便乗するとか言う高度なものではなく、もっと簡単な「生きるのが面倒くさい」や「明日自分はどうなってもいい」などと言った生に対する考えの放棄です。

 ざっくり言って「もう死んでもいいや」と考えた瞬間に人間としては一瞬死んでいるのでは?という超哲学的な主張です。


fin.総括


 なかなかまとめるのが難しい話題ですが、今回の総括として「生きながら死んでいると言うのは定義付ける事が困難な状態だが文化的な生活を送ることが困難な状態と言えないこともないのではないか」という感じです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?